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野球郷土史の魅力

 出不精な上に仕事が忙しかったため、今年になってやっとコロナワクチンを接種することが出来た。我ながら大きな前進である。そこで妙なものを見かけた。

 ワクチン接種後、休憩ということで十五分ほど待機所みたいなところで待たされたのだが、そこで茅ヶ崎市の市制70周年だかの動画が延々と流されていた。そこで茅ヶ崎市がプロ野球の試合をした、という項目が堂々と流されていたのだ。(動画はこちらをご参考ください。茅ヶ崎市制施行70周年記念動画

 昭和26年で対戦カードは松竹ロビンスvs名古屋ドラゴンズ。野球史を扱っている人間には「ん?」となるカードだ。なんといってもロビンスは京都のチーム、ドラゴンズは愛知のチームだ。茅ヶ崎と所縁がなさすぎる。

 何かわかるかと思って「茅ヶ崎 ロビンス」で検索するとwikipediaは茅ヶ崎公園野球場に行きつき、プロ野球の試合があった経緯を記入していた。

プロ野球の中日ドラゴンズが1951年、当時本拠地だった中日スタヂアム(現:ナゴヤ球場=中日ドラゴンズ二軍本拠地)が火災で使用出来なくなった為に、その年の10月1日に当球場(当時の名称は茅ヶ崎市営球場)で主催公式戦(対松竹ロビンス第20回戦)を開催した記録がある[1]。(wikipedia/茅ヶ崎公園野球場より引用)

  なぜここを使ったのか、という経緯は分からなくとも、8月19日のナゴヤ球場全焼の際にここに割り振られた、というのは面白い。このほかが刈谷、浜松、四日市、彦根、松坂ということだから、今のJR東海道線を中心に使ったか、と察せられる。茅ヶ崎が10月1日ということだから両チームにとって遠征地として考えられていたのだろう。プロ野球といったってまだ興業の基盤があってないような時代であることを加味しても茅ヶ崎公園球場を借りるのは最後の一手のように感じる。

 さらに当時の試合データをいつもおなじみウスコイ企画様の日本プロ野球記録からお借りしてみるとさらに面白い。ドラゴンズが2-4でロビンスを下している。

 松竹ロビンスといえば金山次郎、岩本義行、小鶴誠を中心とした水爆打線が持ち味だったチーム。エースには真田重蔵がいて二リーグ分裂後のセリーグを制したチームである。しかし1951年は主砲の小鶴がヘルニアによって思うようなバッティングが出来ない上に真田派閥との対立が浮き彫りになっていく時期。チームも経営難が本格的になってきておりこのオフ、真田、岩本、大島信雄といった選手がチームから契約解除されており沈むのは時間の問題となっていた時期だ。

 ある意味水爆打線最後の姿を茅ヶ崎の民は見ている事になる。もう40に入ろうかという岩本義行がチーム最多本塁打というのも岩本のすごさと同時にチームの終焉を感じずにはいられない。翌年最下位になった後大洋ホエールズに吸収合併される形で消えていく。ある意味では水爆打線の最期を見届けた地が今後自分のホームグラウンドになっていくことになる。

 その際52年からホエールズにいた岩本がまさかの形で自分のいたチームに戻る心境はいかばかりか。

 名古屋は西沢道夫、服部受弘の二大バッターが名前を連ねているのも面白い。西沢、服部も投手として活躍もしている元祖二刀流。と聞こえはいいが、一番にしてセンターの坪内道典、キャッチャーの野口四兄弟の長兄野口明(野口二郎は投手として有名)、サードの児玉利一も投げている記録があるので、能力が高いやつは野手のみならず投手もやっているという意識でチームを運営していたか、と思わせており、二刀流を成立させた大選手というレッテルよりも、チームカラーからすべてやることになり、バッティングだけでなくピッチングも西沢、服部はその能力の高さで唸らせた、という結果論で見た方がいいのかもしれない。

 そんな野球史を紐解けば伝説と呼ばれる人間たちが茅ヶ崎でやっているということを知るのも面白いものである。

 地元の野球史、というのは思わぬものが転がっていることがある。この茅ヶ崎にも例にもれず、この球場では誰が投げたか、が分かったり、思わぬ選手がいたことによって甲子園の扉を開けていたり、思わぬ選手がプロの舞台に進んでいたりする。

 そこをかんがみるだけでも野球は想像以上に近しいものに変わっていくのである。山本正之の「このまちだいすき」ではないが「ボールを追いかけるそのグラウンドを千年前に侍が馬に乗ってかけぬけた」ようなワンダーが眠っていたりするのだ。

 だから時間が空いた時はそのようなものをそっと探してみるのも面白いものである。昨今人文学がなんだと言われているが、歴史や文化というのは自国を他者に知らしめるためのアプローチになり、自分の身近な時間の経過を教えてくれる大切なものであったりする。

 そういうものを調べてみるのは効率を求める世の中には必要ないのかもしれないが、自分の人生に深みを与えようとするならば、持っていて損がないものなのだ。

 最後になるが、私の友人が飯塚に住んでいたころの話をする。彼は小売で働いていたのだが、パートの一人に「小鶴」という名前を持つ女性がいたそうだ。

 彼もまた野球が好きな男だったので「もしかして知り合いにプロ野球選手とかいますか?」と聞いたところ「直近にはいないけど、上の代にいたらしいわよ」という返事をもらって「やっぱり小鶴は飯塚出身なのか」と思いを馳せた、というエピソードがある。

 それを聞いた私は「そうかもしれんね!」と心弾ませながら聞いたものだった。

 その地に脈々と連なる歴史を知る事は、誰かの心に清水を沸かせるものなのだ。

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