10,スライダー論

1、恐らく世界で一番投げられているであろう変化球、スライダー

投手の歴史というのは元々打たれるところから始まっている。

タウンボールやラウンダーズからベースボールへと進化していく19世紀中盤まで投手というのは打たれる存在であった。野球というのは根本的に打つスポーツであり、打者が次の塁までに行く事を防ぐ、それが現在のベースボールに脈々と受け継がれる根本である。

そんな投手が打たれないようにしていくようになるのは間違いなく1884年のルール改正によるものであろう。本格的にベースボールというものがアメリカで台頭してきて1876年に現在のメジャーリーグの一角であるナショナルリーグが結成。野球と興業というものが強くなりはじめた頃だ。カーブやチェンジアップという変化球もこの辺りを起点に生まれている。

ただpitchするだけの作業だった投手がthorwする事を許された頃から、投手は打たれないための試行錯誤が始まったとみていい。

そして現在に至る、最も最後に生まれた変化球といわれるナックルボールが投げられていたのがホワイトソックスのエディ・シーコットで確認できることから1910年代。1910年代には細分化こそされていないものの、世界で投げられている変化球が大方揃った、と考えられている。

その中でスライダーという変化球が生まれたのは1900年代の、タイ・カッブ、ホーナス・ワグナーが活躍し始め、全盛を迎える頃であろう。

その投げやすさと効果から世界で最も投げられている変化球の一つになるであろうスライダー。今日はその話をしてみたい。

2、スライダーの成り立ち

前述したとおり、スライダーの生まれというのは1900年代である。丁度タイ・カッブやホーナス・ワグナーが活躍してきて、年間のホームランが100~120本前後、サム・クロフォードが通算三塁打記録を作りはじめるような時代に生まれている。

世間一般では1900年代から1910年代における低反発球時代、通称デッドボール時代(別にデッドボールを選手が狙う時代、というわけではない)に誕生した変化球である。

生まれた経緯は何説かある。フィラデルフィア・アスレチックスのチーフ・ベンダーの投げたとされるニッケルカーブ、ジョージ・ウールのセイラ―などが起源と言われる。

ここでは誰が起源であるか、という事は重要視しない。どちらかというとカーブとは違う、打たせて取る変化球に価値が見出され、変化球として開発された経緯が1900年代には伺える、という見方で進めた方が大分すっきりして見えるだろう。野球はストレートとブレーキボールで抑える、という思想から、ハーフストレートで打者に凡打を打たせ、時に三振をも取る、という意識がスライダーという変化球で表現された、という見方の方が近い。

特に着目したいのが当時10万ドルの内野陣と呼ばれたフィラデルフィア・アスレチックスのチーフ・ベンダーがスライダーの生みの親ではないか、という説が生まれている事である。未だにMLB最高捕手の一人と言われるミッキー・カクレーン、最高の二塁手という呼び名もあるエディ・コリンズ、ベーブ・ルース以前のホームランメイカーホームラン・ベーカー、そしてジャック・バリーといった打撃のみならず守備も華やかな面子の中で生まれているというところはポイントとしたい。彼らの守備に頼れる環境があった事というのはスライダー誕生に関われるからだ。

ただでさえデッドボールと呼ばれる、ホームランが飛びにくい時代。ホームラン王のホームラン・ベーカーが12本を打って本塁打王になった1913年のリーグ本塁打数が159本という事を考えればその時代を読み取る事も出来よう。また、1900年からニューヨーク・ジャイアンツ(現在のサンフランシスコ・ジャイアンツ)の監督になったリトルナポレオンことジョン・マグローが打撃ではなく守備のチームを作って強くなっていったことは決してポロ・グラウンドがセンター150m近くある球場だったからだけでもあるまい。

つまりスライダーは時代と選手環境の中で生まれた変化球である事が示唆できるのだ。

今回起源が誰か、という事に問いを見出さなかったというのはそういう事で、現在も異説があるように誰が投げたのかは分からない。しかし1910年代のデッドボール時代に、カーブとは違う、新たな感覚をもって作られた変化球であるのだ。

この変化球が有名になるのはこの後、100mile投手の元祖と言われるボブ・フェラーが本人の著書「pitching to win」で書いた事辺りで、そこにきてやっとスライダーという言葉が文章に記述された、とみてもいいだろう。

3、カーブの亜種からスライダーへ

これは想像になるが、チーフ・ベンダーのニッケルカーブに、元巨人中上英雄投手(元藤本英雄)のスライダーの逸話を加えて考えてみよう。

スライダーという変化球が生まれる前後にして最初からスライダーと呼ばれていたのか否か、という所は観なければならないポイントの一つではあるのだが、チーフ・ベンダーが生んだと仮定して、その変化球が「カーブ」と捉えられていた所に着目したい。勿論当時の感覚で言えばカーブであった、という所なのかもしれないが、むしろこれは逆の発想で、スライダーという感覚はなく、まだ「チーフ・ベンダーの投げる必殺カーブ」の一つとしてカウントされていたのではないか、という事である。世間認知という点ではチーフ・ベンダーの時点ではカーブだったのかもしれないし、また、本人も手元で曲がるカーブという意識だったのかもしれない。そこはもう想像にしかならないが、少なくとも、スライダー成立前はカーブの亜種として捉えられていた、という見方が出来るのではないか、という事である。

また、日本でスライダーを投げたのは中上投手とされているが、彼は何かしらでボブ・フェラーのスライダーのことを彼の書籍知り、1949年にキャッチボールで習得したとされている。習得の背景にボブ・フェラーの書籍が関わったかどうか、というのは現在分からないにせよ、中上投手が自分の投げているものをスライダーと確定したのに「pitching to win」が絡んでいる、という結論が見える。

中上スライダーを見た誰もが形容するのは、ストレートと見まごうばかり、という点であった。「トンボがすっと横に移動するように」「ストレートのようにホップして変化してくる」という視点は現在でいうカッターに近い。1940年代にはもうスライダーはカーブから離れているのである。

メジャーに於いてもジョニー・セインがスライダーとカーブの間の変化球をにおわせるボールを投げていると言っており、1940年代にはアメリカではもっと明確に分けられていたのだろうと推察される。

面白いもので1950年におけるスライダーという変化球は日米共に同じ見解を示している。

・ハーフストレートのような変化球
・手元でスッと曲がる

1950年、スライダーがカーブの亜種でなく、変化球として認知され始めた年代とみてもいいであろう。しかもその性質は、カーブの亜種というよりも現在のスライス性のカットボールのような性質性が高い、というところも踏まえる。

スライダーという変化球が社会的に認知されるのにおおよそ20年を要した、と見受けられる。

4、日本のスライダー、アメリカのスライダー

その後の日米のスライダーはどうなっていったか。

面白い事に、ここから先の日米のスライダー観は全く逆の道を歩んでいく。アメリカでは育んできたスライダー観がそのまま時代と共に進んでいく。三振を取るよりも打たせることを視野にいれた変化球として、現在のカットボールの感覚のまま時代を進んでいくことになる。

一方で中上投手の投げたスライダ―は日本で普及していったか、と言われたらそれはNOである。それに似たボールを投げる投手は増えるものの、その性質上求められないはずの変化量を求める向きが生まれ、結果としてカーブの亜種としての方面へ進むことになる。三振が取れるほど大きく曲がるスライダーが良いスライダーとされ、その対抗馬として打ち取る中上スライダーがあった、という方が見方としては近い。そういう意味ではスライダーというものに対する含みが日本では若干深い。

それが交わったとみるのが1968年における日米野球で来日したスティーブ・カールトン(セントルイス・カーディナルス)が東京オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)に在籍していた成田文男投手がスライダーをカールトンに教え、彼はそのスライダーをずっと「メイド・イン・ジャパン」と言い続けた事にもその差異が見受けられるのではないだろうか。

カーブほど曲がらないが、カッターよりは曲がり、三振を取る事を主眼に置いたスライダーというのは1960~70年においては日本のものであり、アメリカではそれをスライダーとみなしていなかった、というところが日米のスライダー観の差としてはっきりと表れているのである。

勿論北別府学投手(元広島)のように現在のカットボールの意識を持った、芯一つ外して打ちとるというスライダーがなかったわけではない。アメリカとてスティーブ・カールトン以前以降にも日本と同じ三振を取れる、メイド・イン・ジャパンのようなスライダーを投げていた投手もいるだろう。

ただ、ここにおいて日本とアメリカの変化球観がくっきりと割れていると見てもよい。

アメリカにとってスライダーは打ち取るものだし、日本にとっては変化量で三振を取る

この意識が日本とアメリカのスライダー観を分けたのである。

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