野球とは物語のスポーツである

 佐々木朗希二試合連続完全試合の夢は打ち砕かれた。
 日本ハムファイターズと投げ合って八回、ここでロッテは投手を変えた。それがそのままチームの敗戦となってしまうとは誰が思うだろうか。
 万波中正の10回表に打った値千金のホームラン。それが投手一人では野球が勝てない事を改めて証明したいい試合だったのではないだろうか。

1,野球は一人でもできるのか

「野球は一人でもできる」

 その言葉を発したと言われるのは江夏豊だ。著書においては自分自身が言ったものではなく、コメントの「野球は一人でもできますね」という質問に気持ちが高ぶっていた江夏が返事をした、というものらしいがそれの本当はわかっていない。

 そんな彼の人生を紐解けば、この発言に至るまでに多くの選手やコーチが絡んでいる事がわかる。
 元々江夏豊という投手はストレート一本しか持っていない投手だった。高校時代の顧問は野球をやった事のない人で、教える事が出来ないままストレート一本で高校時代を終えた、というエピソードがある。それが林義一の丁寧な指導で開花したと言われいている。
 また、必ず彼の逸話にはダンプ辻こと辻恭彦の名前が出てくる。彼のどっしりとした構えが気持ちよくボールを投げられ、当時の正捕手だったヒゲ辻こと辻佳紀から正捕手を奪う話にまで至る。

 そういう名前がどの書籍にも出るという事は少なくとも江夏豊にとって一人で野球をやっていたという気持ちはなく、当時の江夏豊を取り巻く事情やある種エースピッチャーとしての矜持などがあのような言葉を言わせたのだろう。

 野球は一人ではできないのだ。

2,一人では野球は出来ない

 二試合連続完全試合になりそうな雰囲気になりながら千葉ロッテマリーンズは敗北した。佐々木朗希を登板から降ろした後、千葉ロッテの姿がむき出しになった。
 万波中正は途中から代打で登場した、途中から出てきた選手だ。スタメンに名前を連ねていた選手ではない。
 そして9回ウラ、ロッテが勝てる状態にありながらも北山亘基が必死になって満塁の場面を抑えた。上沢直之をはじめとして、堀瑞輝も、宮西尚生も完全にアウェーな状態から必死になってロッテから点を取らせまいと必死になった。
 その結果、佐々木朗希は引きずり降ろされた。「投手の未来がある」という言葉と共に。それは綺麗な言葉だ。「未来」という美しい言葉に酔いしれる人間は多くいるだろう。

 だが、事実として日本ハムファイターズは佐々木朗希をマウンドから引きずり下ろし、それどころか勝利をもぎ取った。それも多くのベンチやブルペンにいた選手らが、である。

 一人で勝ちに行った千葉ロッテマリーンズと、九人以上のメンツで勝ちをもぎ取った日本ハムファイターズ。
 この明暗がくっきりと出た。
 一勝以上の勝利をBIGBOSS率いる日本ハムは、全員で掴んだのだ。

3,佐々木朗希の不完全性

 私はこの勝利で感じたことがある。
 佐々木朗希という投手の弱点に。

 彼には物語がない。

 多くの選手が色々な物語をひっさげ、それでもプロの壁という厚い壁に阻まれながら一人の選手として伸びあがっていく。そういう積み上げてきたものが少なすぎる。
 誰もが不確かな「未来」だけを夢想し、そのためならいくらでも犠牲を費やしても惜しくない、という発想で作られている。
 彼には結果という物語しかない。
 だから「凄さ」は理解できても「共感するところ」はない。
 まるで完成された映画を観に行くような感覚を覚えさせられる。彼が素晴らしいピッチングをするのは当然、というような風潮で、だ。

 しかし、彼を観る人々の目はどうだろうか。
 プロ野球選手でも打てないようなピッチングマシーンになっているように映る。
 彼がどういう気持ちで投げているとか、彼の背中を守っている野手がどういう気持ちだとか、対戦する選手はどのように対策してきたとか。
 そういうものがすっぽり抜け落ち、起こりうる結果だけを楽しんでいる現状がある。

 それを批判したいと考えたから「共有性記録主義」を私は唱えた。
 彼が話題になるたび、無味無臭な感情が野球を包むように思えて仕方がないのだ。その試合に厚みがない。ただ淡々と結果が出るのみだ。

 観客も「打てない」事を望む。あと何人バッターを抑えていくか、三振を何個取るか。
 そこだけがピックアップされ、野球において最も感じられやすい「選手一人ひとりの物語」が隠れているのだ。

 投手としては打たせたくないだろうし、打者としては打ちたい。
 それがぶつかり合って、心技体が重なりあうからこそ野球の結果は一つ一つに意味を持ってくる。
 多くの感情と技術が重なり合って一つの回答に行きつくからこそ野球というのは面白いのだ。

 その「物語」に佐々木朗希は欠ける。
 壊れるかもしれない世界最高のピッチングマシンのように今日も扱われ続けている。
 同じ日曜日に投げていても、サンデー兆治やサンデー小野のように壊れても必死になって再起をかけるような必死さもないし、ダルビッシュ有や田中将大のようにチームの大黒柱として中5日で回しているわけでもない。
 ただただ過保護に扱われているだけだ。むしろその過保護さこそが佐々木朗希の物語になりかけている。

 そこを同じくまだ物語を持たない、話題性だけが優先する日ハムナインが突いた。彼らは佐々木投手を引きずり下ろし、勝利にまでこぎつけたという「物語」を切り開いたのだ。

 佐々木朗希は結果だけしか持たない。チームが持たせていないのだ。
 それに対して日ハムは上沢をはじめとする多くの選手によって「物語」を形成した。今でこそ結果をほとんど出せていない、ひな鳥のようなチームだが、この物語の積み重ねがいずれそのままチームの強さになっていく。

 これが野球のすばらしさであり、そういったチームを持つリーグの根幹を支える強さなのだ。

 「才能」という無菌室に入れられたひな鳥と、今空を羽ばたこうともがいているひな鳥。
 確かに無菌室に入れられたひな鳥の方が大きくなり、高く飛ぶことが出来るかもしれない。
 しかし、実際しっかりと飛ぶことが出来るのは一回り小さくてももがいて空を飛ぶことを覚えた鳥なのだ。

4,佐々木朗希とリーグへの期待

 だからこそ日ハムの勝利は意味のあるものだった。
「野球は一人ではできない」事の証明を行えた、ひな鳥たちが大空へ飛び立つための「物語」を形成できた。その物語があるからこそ、我々野球ファンは球場に足を運び、応援するチームの勝利を願う。
 そこには多くの苦難があり、その道の困難さゆえに涙を流すこともある。それがまたチームへの愛に繋がり、ファンとチームは一体になっていく。

 それが今日までプロ野球や各々野球リーグを形成してきた物語なのだ。

 恐らく佐々木朗希がここから大量に打たれて失点しても悲しむ人など誰もいないだろう。彼には「成功」しかない。失敗し、共に苦難を歩いて行ったという「物語」がない。
 今日敗戦投手になった西野勇士の方がよっぽどその「物語」を持っているだろう。彼の敗戦に心を痛め、涙を流すファンは必ずいるはずだ。
 「成功」しかない者の弱点なのだ。

 そんな物語のない選手の芯は細い。
 活躍している時はあっても活躍しなくなっていくとものの簡単に捨てられてしまう。そんな選手が一人でも減るように、と思って選手を大切に扱え、と騒ぐようになったのが現在の世論ではないか。

 だからこそ彼に「物語」を与えてほしいと思う。

 多くの「物語」が選手を支え、その物語が選手を、リーグを発展させていく。
 佐々木投手が必死になって戦えば、そうはさせまいと必死に相手は食らいつき、一勝を奪い合う。
 そこに多くの物語が生まれ、そこに人は心を動かされ、選手をきっかけにチームを、リーグを愛する人々が生まれていく。

 そうする事によって佐々木朗希にとって「自分が成長するために来てよかったリーグ」となり、リーグにとって佐々木投手が「このリーグに来てもらえてよかった選手」となりうるのだ。
 物語を多く出す事こそが相互を高め合う。

 その高め合った未来こそが、NPBという多くの歴史に燦然と輝く記録になっていくのだ。

 佐々木朗希の活躍で喜んでいるうちはこのリーグに未来はない。
 だが、佐々木朗希を攻略しよう。超えてやろうとする気概と、それを乗り越えさせないように必死になる佐々木朗希がいて初めて、MLBに負けない見事な未来を形成していくのだと、著者は信じている。

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