トニー・クロニンガーのいた1966年ブレーブス
1,大谷翔平、2桁奪三振+8打点の快挙
【ハイライト動画あり】大谷翔平、連夜の歴史的パフォーマンス。2本塁打8打点の翌日は、8回2安打無失点13奪三振(Jスポーツコラム&ニュースより)
6月23日(現地時間22日)、エンゼルスタジアムでのカンザスシティでの試合で大谷翔平が13奪三振を記録。前日の8打点と合わせて二日連続で打者として、投手としての記録を残すのはメジャー初であった。
その際、それに近しい成績という事でシーズンで8打点以上の打点と二桁奪三振を上げた投手という事でトニー・クロニンガーの名前が挙がった。
日本では全くと言っていいほど無名の投手と言って差し支えないだろう。
ほとんどのメディアではこの無名の誰かの名前と記録をした期日だけで終わってしまっている。
しかし、こういう時でしか歴史上の投手に触れる事などほとんどない。
ではこういった野球史オタクはどうすればいいのか、と言えば、トニー・クロニンガーに触れるしかない。
2,トニー・クロニンガーデビュー時のナ・リーグ
トニー・クロニンガーのMLB初登板は20歳の頃と若い。
当時ミルウォーキーに本拠地を構えていたブレーブスにおいて1961年6月15日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦に初登板、4回投げて6失点、うちホームランを2番打者であったウィリー・マックビーに打たれているなどほろ苦いデビューを果たしている。
当時のブレーブスには三番にエディ・マシューズ、ハンク・アーロン、ジョー・アドコックといったバッティングを売りとする選手が多く、後にニューヨーク・メッツなどに移籍し、最晩年もう一度戻ってくるフランク・トーマス、本格的に打者として台頭してくるキャッチャー、ジョー・トーリなど打線が本格的に充実してくるころであった。
一方、投手が弱く、40歳になっても投げている通算363勝投手、ウォーレン・スパーンに頼らざるを得ない状態でそれを受け継ぐ形のルー・ブーデット(通算203勝)も34歳と先発投手の若返りが急務になりつつあるタイミングであった。
そこでクロニンガーは7勝2敗と次期エースの香りを出しながら現れてくる。22歳のボブ・ヘンドリーと共に若手コンビとして台頭をしていくのだ。
しかしながらこの二人でチーム状況が華やかになるわけでもなくシーズン4位で終了。フランク・ロビンソンや日本でもなじみ深いドン・ブラッシンゲームのいるシンシナティ・レッズが1位を取っている。
また、デューク・スナイダーやギル・ホッジス、ジム・ギリアムといったブルックリン時代のメンバーたちの世代交代が図られ、フランク・ハワード、ウィリー・デービスといった球団の顔が整いつつあるロサンゼルス・ドジャースといったチームも脅威となっており、ブレーブスはなかなか上がってくる事を許してもらえなかった。
一方的に強いわけではないが、決して弱いわけではない。
そんな状態でシーズン4位から5位に定着しているのがミルウォーキー時代のブレーブスで、彼らが優勝に近付くのは地区制度を採用した1969年で、ディビジョンシリーズでトム・シーバー率いるミラクルメッツことニューヨーク・メッツに敗北している。
1960年代のナ・リーグは打力よりも投手力が非常に猛威を振るい、そこが強いチームがそのまま優勝するパターンが多い。
例えば1960年代を象徴するナ・リーグの投手といえばレフティ、サンディー・コーファックス、ドン・ドライスデールを中心とした大投手陣を組んでだロサンゼルス・ドジャース。ホアン・マリシャル、ゲイロード・ペリーを擁するサンフランシスコ・ジャイアンツ。ボブ・ギブソン、カート・シモンズを擁するセントルイス・カーディナルスといったチームが強豪であった。
ある意味高い得点力があったからこそ低位に落ちる事はなかったし、一方で投手力が安定しなかったからこそ上位に上がる事が許されない。
そんなチームでトニー・クロニンガーはデビューするのであった。
3,二刀流、クロニンガー
打率.192(621打数119安打)、本塁打11、打点67。
これがトニー・クロニンガーの通算打席成績である。
当時でも打撃力は高い方だ。
ボブ・ギブソンは通算24本塁打を打っているが17シーズン在籍して、1328打席入り、274安打。(打率.206)が目立っているくらいで、あとは打てて20打点が限界、みたいな選手が多い。
この頃から投手は打てたらいい、打てなくても投げられれば十分という考え方があったのは見て取れる。
クロニンガーは12シーズンの在籍なので打撃上手だったことが伺えよう。
特に今回の大谷翔平で語られている1966年は打率.234(111打数26安打)5本塁打23打点と大暴れしている。
1966年はブレーブスがミルウォーキーからアトランタに移籍しており、セカンドのウディー・ウッドワード以外は全員が2桁本塁打。
ジョー・トーリ、ハンク・アーロン、サンフランシスコから移籍してきたフェリペ・アル―が30本本塁打(うちアーロンは44本)。アーロンに関しては21盗塁とスペシャルな選手っぷりを改めて見せつけている。
その中でエースであったクロニンガーもホームランを打てるとあれば気の休まるチームではなかっただろう。
一方で投手はというと例年通りクロニンガー以外はぱっとせず、ヒューストン・アストロズから移籍してきたケン・ジョンソンがその後ろについているくらいで目立ってはいない。
ブルペンにひっそりと27歳のフィル・ニークロがいるくらいで36にしてメジャーに定着したドミニカンピッチャーのチ・チ・オビリオに頼らざるを得ないほどひっ迫していた。
この年も案の定5位。
ブレーブスが台頭してくるのは27歳にして目立たなかったナックラー、フィル・ニークロが29歳にしてエースとして立ち上がってくるまで待たなければならない。
投手としては乱速派だったようで、MVP候補28位の1965年には119、1966年も116と四死球がこれほどないほど多い。防御率も4.12とお世辞にもよくない。
この年優勝したロサンゼルス・ドジャースのチーム平均防御率が2.62と考えるとエースでこれならばやはり勝てるチームからは遠い存在だ。
ちなみにリーグ平均防御率は3.61でブレーブスは3.68と割り込んでいる。
弱くはないが強いとはお世辞にも言えないブレーブスの姿がここからも見受けられる。
そして今回記事になった試合は7月3日。
奇しくも相手はデビュー時にお世話になったサンフランシスコ・ジャイアンツ。相手先発はピッツバーグ・パイレーツなどで投げたジョー・ギブン。
この試合はエラー込々で17得点の大暴れ、うちジャイアンツの自責点13と打撃が唸りに唸った試合になっている。
チーム打数47というめちゃくちゃな数字。
一回表に打者一巡の猛攻であった。
1イニング持たない間にギブンは降板、二番手のボブ・プライディに変わったその一打席目、満塁の場面でクロニングがライトに本塁打。一回表にして7得点の大打撃になっている。
そして二打席目に、もう一度満塁の場面が訪れ、ジャイアンツはレイ・セドリッキに交代。満塁の場面でもう一発満塁弾を左中間に叩き込んでいる。
この時点でもう8打点の大暴れ。のちにもう一打席で1打点。
5打数3安打9打点の大暴れをしている。
ちなみにこの日の最多打点はクロニンガーを除けばトーリの3打点。いかにクロニンガーが大暴れしたかがよくわかる。
投手としては9回を3失点に抑えて完投。フォアボールも2と好調であった。
まさに独り相撲をやって勝った試合であった。
この年14勝11敗。1964年の19勝14敗。1965年の24勝11敗と活躍。
三振は多いが四球もワイルドピッチも多い、負けないけど勝てないブレーブスのエースとして投打含めて君臨したのであった。
4,後のクロニンガー、そして今
しかしこの年を境にクロニンガーは急に老け込む。
1967年には4勝7敗。翌年の1968年も1勝3敗と復調せず、シーズン中にシンシナティ・レッズにトレードに出されてしまっている。
1969年、11勝を挙げるが17敗と完全に敗北。
1970年に最後の輝きと言わんばかりに9勝を挙げるがその後活躍は出来ず、1972年、移籍先のセントルイス・カージナルスで引退。32歳であった。
生涯通算352試合。113勝97敗。(勝率.538)防御率4.07(1767.2イニングに対し799失点)。打撃は前述のとおり。
中堅チームのエースは早くして去ってしまった。
しかし今、大谷翔平の登場によって過去のメジャーリーガーたちが起こした軌跡を改めて調べる事が出来る時代になった。
事実彼がこのような結果を出さなければ私もトニー・クロニンガーの実績を知らなかっただろうし、世間も彼を調べる日本人が現れる事など想像もつかなかっただろう。
だからこそ選手が記録を出した時は、経緯を以て過去の成績に当たり、その世界を見直す事が歴史を記録を踏んで大きくなっていく麦のような野球には意味があるのである。
≪参考記事≫
July 3, 1966: Braves pitcher Tony Cloninger clouts two grand slams
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