見出し画像

近鉄バファローズという名の朽ちた巨木~球界再編問題20年を受けて~

2004年のプロ野球 球界再編20年目の真実(山室寛之/新潮社)

今少しずつではあるがこれを読んでいる。元々1988年のパリーグや戦時中の野球、ライオン軍をお書きになられているような資料にしっかり当たられる山室先生の書籍だから事細かな詳細というものが文章になっている。
球界再編問題を取り上げる際はこれを読んでいない人はよほどの事情通か事実をもとにした感情論でしか語る事が出来なくなるだろうと予見されるほどのもので、読んでいただきたいものである。

とはいえ高校生だった私がもはやアラフォーに入ったように、球界再編問題も20年という時を費やした。地元筑豊でも少なかったブレザーを着て辺りを駆け回るような、おおよそ思春期とも取れない子供っぽい生活をしていた男が健康診断のたびに食生活を見直す羽目になっていると考えると時の移り変わりというのは恐ろしい。ついこの前の出来事のように思える。

しかし、高校生がオッサンと呼ばれる程度には時間が経った近年、このようなことを思っていた。
「そろそろ球界再編問題は歴史として考察をしていかなければならない段階に入っているのではないか」
人間は何事も起こった当時が近ければ近いほど感情に支配され、その時に起きた事実を整理する間もなく次の、真実か飛ばしかもわからない事実に踊らされてしまい、そこで醸成してしまった感情を清算出来ないところにある。
今でも多くのパリーグファンが「ノーモア近鉄」を合言葉に色々な発言をしているのは周知であろう。

ただ私は近年こうも思っている。
「果たして近鉄がプロに残っていてよかったのだろうか」
これは近鉄ファンをないがしろにしたい、という発言ではなく、当時の世相や今のプロ野球、特にパリーグを中心に発展した現在を鑑みると決してそうは言えないのではないか、と思うからでもあるからだ。

というわけで近鉄ファンはここでお帰りいただきたい。そこそこ辛辣なことも書くつもりだ。そもそも今回は芳一の語る平家琵琶に涙を流す平家の音量のような事をするわけでもなければ、近鉄の撤退は正しかったなどを語りたいというわけでもない。
それでも前に進むというのならば、著者は決して近鉄バファローズを憎からず思っていた事を踏まえた上で少し感情から距離を置いたうえでの、あくまで”他人事”目線として語る事を承知いただきたい。

1,”貧乏”をいつまで続けるつもりだったのか

かつて近鉄バファローズに所属した金村義明氏が酒の肴のように80年代パリーグを語っているのは今更いうまでもなかろう。昭和というおおらかな時代を象徴する多くのエピソードに当時のファンはニヤリとし、知らなかったファンは爆笑の渦に巻き込まれていただろう。
そこでよくピックアップされるのが当時から近鉄は貧乏だった、というところである。この貧乏エピソードに笑いと哀愁を覚える人も少なくはないだろう。
勿論プロ野球チームを持つという現実、決して貧乏ではなかったであろうし、近畿鉄道自体の懐事情もあっただろうから湯水のように金を流せない現実が貧乏なイメージをかきたてられるのだろう。

私もこういう話に抱腹絶倒となるのだが、一方でこれは昭和のエピソード、ひいては2000年より前のエピソードだから笑える側面があると感じてしまう時がある。
裏を返せば近鉄という会社はバファローズに投資をしていかないことが前提にあったと読み取れるからである。

球団が選手の給料とホーム球場代以外のところに投資をすることが基本になったのはここ10年前後であると覚えている。サーパス神戸やシーレックス横須賀といった二軍の独立採算思考が終わり、福岡ソフトバンクホークスを中心に選手やコーチといった設備投資を行い、選手がより成長しやすい環境を整える事に腐心し始めたのである。
最早投げられ、打たれたボールがどういう回転をしていたかを解析するのは基本となり、そのデータをもとにチームを運用することが基本となりつつある。
野球が進化をしてきたのである。

進化するという事はそれなりに投資の規模が変わってくる。
1970年代後半からフリーエージェントが登場して以降、実績ある選手の獲得はしやすくなった半面、その年俸はどんどん膨らんでいったように、設備投資には莫大な資本が関わってくる。残念ながら資金は魔法の小瓶から湧いて出てくるものではない。誰かが懐を痛めながらリターンを見込んで成長させていくものである。

そこに近鉄グループが積極的に介入していくのか、という疑問が生まれるのである。
近鉄がプロ野球に参入したのは1949年だ。2リーグ制も定まっていない当時だからこそ手軽に参加できた側面もあっただろう。当時の時点で近鉄はラグビー部を持っていたからラグビーと同じくらいの費用で利益を見込めるなら、と始めている。小さな損失で大きな利益、というのが近鉄の思惑である。
その球団が巨大化していくプロ野球の仕組みにどれだけついていけたのか、そもそもどこまでついていくつもりだったのか、と考えると疑問が残る。よしんば2004年問題を乗り切ったとしても5年もしない内に球団売却の話が再浮上するのではないか、とさえ思えるのである。

選手にすらあれほど金がかかるのに、今度は設備までも。
と思うのは経営者側には必ず浮かぶのではなかろうか。小さな投資で大きな利益を考える近鉄の理論からあまりにも外れてしまう。そこに選手がFAなどをちらつかせて金の無心をしてくるのだから近鉄の描いていたプロ野球の在り方とは全く違ったものになっている。むしろそのような考えをもとに社会人野球に参入した熊谷組的な考え方のほうがしっくりくるのではなかろうかと思えるほどだ。

人と球場でさえ90年代の時点で渋っていた近鉄が投資をしていたとは考えにくい。

2,ファンサービスという大きな課題

ユニフォーム配布の元祖、H「鷹の祭典」の凄さ(藤浦 一都/ベースボールタイムス)

2006年に始まったユニフォームデーは福岡ソフトバンクホークスを皮切りに今やほとんどの球団が一度は行った経験のあるサービスであろう。普段からホームとビジターのユニフォームだけで試合をしていたプロ野球に第三の選択肢を設けたのは福岡であった。
これの元をたどれば2004年の福岡ダイエーホークスにおける「白のキセキ」である。これはホークス公式も触れている。

18年目ソフトバンクの「鷹の祭典」原点イベント知ってる!? 2004年「白の奇跡 福岡ドームからの挑戦」(西スポ)

原点の「白」と革新の「イエロー」。2つの色に込めた意味(福岡ソフトバンクホークス/note)

しかし著者はこのイベントに正直記憶記憶がない。福岡に住んでいたのにも関わらず、だ。当時はまだ部活などで忙しい時期だったからニュースの片隅で出たはいいものの記憶の彼方に飛ばされている可能性もあるが、それくらいの扱いであり、まだ局所的なものであったことを思わせる。
それが段々と定着化していったのがソフトバンクの鷹の祭典である。

特に著者が驚いたのが女子高校生デーである。
福岡に帰省している時、弟夫妻がソフトバンクの試合を見に行くから子供を預かってほしいと母に尋ねてきたのだが「野球好きの弟はとかくさほど力を入れていない妻のほうはなぜ」と思って聞いているとその日のユニフォームがセシルマクビーとのコラボユニフォームだから、と聞いて感嘆したことがある。
男性野球ファンに「セシルマクビー」と言ってもピンとこないだろうし、もし知っていたらその男性はファッションに敏い恋人でもいるだろう。私は古着屋などでも働いていたから偶然その知識を持っていたため「面白いコラボをしたなあ」と思ったものである。

確かに福岡に於いてホークスは地に根をはった球団であっただろう。
しかしその多くは野球ファンであり、その次に福岡だからなんとなく応援しているという層がほとんどだったのではなかろうか。少なくとも福岡の若い女性から湯上谷や吉永、藤本といったホークスファンなら知るであろう選手の名前が出た記憶はない。藤本こそむしろ監督になったことでやっと福岡で名前が何度も上がる人になったのではなかろうか。
ダイエー時代ですらそれくらいの位置ではあった。

その均衡が一気に崩れたのがこの辺りであると思う。
和田毅、新垣渚、斉藤和巳や川崎宗則といったイケメン軍団がチームのレギュラーになっていくことで女性人気がにわかに沸騰してきたところをこういったコラボユニフォームデーで一気に加速させている。
今ではプロ野球はよく知らなくてもホークスはそこそこ知っている福岡県民は少なくないだろう。よくわからなくても柳田悠岐の試合結果には敏い福岡県民を一気に作ったのはこの辺りからだ。

このマーケティング力こそがソフトバンクの最も力あったことのように思う。
「福岡県民だからなんとなく応援している」「父親や彼氏が応援してるからなんとなく見ている」「イケメンが多いと聞いているから気にはなっている」、そして「でも野球にはさほど興味があるわけではない」
といった潜在的な野球ファンになりそうな女性層を一気に取り込んだのが女子高生デーであったと当時ながら感じたものであった。男性では興味一つすら沸きそうにもないセシルマクビーでも、オシャレに敏感な女子高生や二十歳前後であれば反応せざるを得ない。
彼氏が彼女をドームに連れていく、から彼女が彼氏をドームに連れていく、という構図を作り上げた当時のソフトバンクの手腕は流石だと思ったものであった。

さて、そのような施策を近鉄は施せたのか、という事である。
当時のパリーグは集客に力を入れている球団よりも持っていることが重要、という企業が多かった。
当然これも投資になるためにそこそこ費用が掛かる。2010年代ユニフォームデーに力を注いでいたのが資本力のあるソフトバンクやオリックスである事もその状況に関わってくるだろう。日本ハムなどは現在もあまり積極的ではない。

設備投資すらためらいそうな近鉄がそういったことを行うのか、と問われればいささか疑問に残る。むしろ設備投資よりは安いと踏んで積極的に行うかもしれないが少しでも陰りが出たら即ストップというくらいにはシビアな対応をしてくる可能性は十分にある。
そもそも「ただでユニフォームを配る」はおろか「1日限定のユニフォームを作る」ことにすら難色を示す可能性がある。現在でこそその投資対費用効果が出る事が分かっているが、まだ始まりたての頃だ。懐疑的になる方が自然であろう。少なくとも近鉄はそういったことに積極的参入する企業ではなかった。
なんとも平成どころか2000年を過ぎたのに昭和の匂いを残しながら渋い経営を続けていたビジョンが見えるのである。

3,歴史から見た近鉄バファローズ

最後に少しだけ歴史の話をしよう。
1950年、パリーグの牽引素材にするつもりのものはなんであったかはご存じであろうか。これは調べている人には簡単な質問で、元々阪神タイガース、阪急ブレーブス、南海ホークスを中心に私鉄4球団の私鉄球団競争を売りにしようとしていた。
それを巨人戦のなくなる阪神が嫌がり反故になった経緯がある。阪神は私鉄球団抗争路線よりも東西決戦を売りにした方が生き残れると判断したのだ。実際それが当たってしまった。
パシフィックリーグは関西リーグになっていた可能性は十分すぎるほどあった。そこに西鉄クリッパーズ(のちの西鉄ライオンズ)も絡んでくるであろうから日本のプロ野球は違った形になっていた可能性がある。
言ってしまえば現在よりはミニマムになる一方でパリーグが鉄道リーグとして関西私鉄だけでなく東急、西武といった関東私鉄も絡んでくる、大鉄道リーグになっていた可能性もあるし、消える可能性は高いだろうが松竹、大映、東映が絡んだ映画リーグが生まれていた可能性もある。ここは歴史のifとして想像を豊かに語っていただけばよいだろう。

しかし阪神は逃げてしまった。この時点でパリーグの柱であった関西私鉄4球団抗争の路線は完全に崩壊してしまい、毎日新聞の撤退と共にパリーグは一度瓦解の道を進んでしまう事になってしまう。
80年代には南海も阪急もチームの経営に対するアプローチは弱いものになっていき、結果1988年に球団売却をすることで終わりを迎えてしまう。それは阪急鉄道創始者の小林一三の想像した鉄道を中心とした一大産業構想にプロ野球が必要ないと判断されたという事の裏返しでもあった。

その翌年にギリギリ体裁を保っていた近鉄にプロ野球どころか日本の野球を変える存在となってしまった野茂英雄が入団したのはなんと皮肉であろうか。
日本におけるプロ野球一党独裁政治を終わらせると同時にビッグリーグという黒船を招き入れる原因となってしまった男の入団が私鉄球団抗争を売りにしようとしたパリーグ最後の生き残り球団に入ったのである。こう見るといささか歴史の偶然とは面白いものと思わずにはいられない。

結果昭和を払しょくできなかった近鉄は90年代前半こそ栄華を建てたものの、野茂英雄の退団からぽつぽつ選手がフリーエージェントなどで退団、気付けば巨人や阪神からイマイチと思われていた選手のトレード先になりつつあり、そこで一念発起した選手らと中村紀洋、タフィ・ローズら自前選手の全盛期が重なり、2002年優勝という、いわばろうそくが尽きる最後の火のようになってしまった。

大阪ドームを本拠地に構えるなど抵抗こそしたものの、結局最後まで昭和、というよりは1949年のパリーグ構想を抱いた、というよりは抱かされ続けたまま力尽きた、という近鉄バファローズの悲劇は2004年を持って終焉を迎えた。
そう考えると歴史の不思議さというのを改めて感じさせられる。

4,終わりにかえて ~かくして朽ちた巨木は倒れた~

改めて整理したとき、近鉄バファローズはパリーグ最後の徒花であったのではないかと思う。
パシフィックリーグが生まれた時の企業チームでは若い部類に入る近鉄がよしんば一番最後まで生き残り、近鉄バファローズの崩壊と共にパリーグは新しい時代へと突入したことはなにか運命的なものさえ感じさせられる。
毎日新聞が去り、西鉄が崩壊し、東急東映は若者の起業したグループに手渡し、追い越す壁であった阪急南海は昭和と共に消えて行ってしまった。
毎日はロッテが買い、西鉄は二転三転したのち西武は埼玉に本拠地を構え、東映は日拓を経由して日本ハムに買われ、阪急はオリックスに、南海はダイエーに買われていった。
私鉄球団抗争の柱であった球団は全てパリーグを去り、近鉄だけが青色吐息で進み続けた。もはや「安い金額で高い利益」といった当初の姿から遠くなったバファローズを見ながら近鉄本部は何を思ったか。

ソフトバンクや楽天といったIT大企業が入ったからこそ今のパリーグは変化した、と言われるが私はパリーグの業を半ば背負わされる形で生かされ続けた、近鉄という巨木が倒れた事は決して無関係と思えない。
近鉄という、当初のパリーグを残す朽ちた巨木が折れたからこそ新たな芽が生まれ、そこから新たな命が吹き込まれていったのだ。
あまりにも痛みを伴ったのは間違いない。
しかし、その痛みを乗り越えた先にこそ今があるのである。

「ノーモア近鉄」「近鉄の悲劇を繰り返すな」
正直に言って私は嫌いな言葉である。近鉄という巨木が倒れたことをいまだに悲劇の尖峰として担ぎあげ、思考停止することを私はよしとしない。朽ちるべきものが朽ちて沈んだ、きわめて自然な成り行きの中で近鉄は倒れたのであり、そこから東北楽天ゴールデンイーグルスや北海道日本ハムファイターズの登場、そして都市密集型のスタンスから地方都市牽引型に切り替わっていくまでの政治抗争を一緒くたにしてはならない。

ファンのために戦った男を完全無欠の正義の使者として扱い、「たかが選手が」といった人間を悪党として扱い、その言葉を悪党のものとして処理する姿勢は終わりにせねばならない。
20年経った今だからこそ感情のタガを外し、一度歴史として捉えるべきなのだ。正義の使者が一人の人間であったことを再認識し、悪党にも経営者としての理屈があることをきちんとまとめてこそ、球界再編問題は新たなステージの議論が可能なのである。

近鉄が球団を失ったことをいつまでも悲劇にしてはならない。
いつかは朽ちる巨木を目の当たりにした我々は、そこから得たさまざまな教訓を各々でまとめ、違う見方をしながら後世に伝えていかねばならないのだ。

リーマンショックもコロナ禍も乗り越えた今のパリーグに
「ノーモア近鉄」
はもういらない。
大阪近鉄バファローズという巨木が朽ちて倒れた姿を、お涙頂戴の悲劇としてではなく、様々な視点から捉え、そこから見えた様々なことを語り継いでいくことこそが本当に必要なことなのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?