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日産自動車野球部復活と社会人野球

日産自動車野球部 復活を検討

確定、とまではいかずともかなり信ぴょう性のある復活になりそうだ。
リーマンショックの影響と共に休部をした日産自動車野球部。休部と聞けば響きはいいがそれから復活した企業はほとんどない。事実上の廃部となることの多い社会人野球部でまさか復活ののろしが上がることになるとはだれも思わなかっただろう。
ルノー傘下から離れた日産がルノーの干渉を受けることなく独自路線を進むことが可能になったから、ということらしい。

どんどんと斜陽の一途をめぐる社会人野球でこの一手は大きな前進となる。
もともと三年前の2020年、茨城日産グループが茨城日産野球部を創部。それが足がかりになったようだ。
九州は福岡、小倉と行橋の間にある苅田で活動をしている九州日産野球部の血を引き継いでいた苅田ビクトリーズも吸収日産野球部として再編成の予定ということだ。
北関東の新しき血、九州の繋げていった血が現在を呼び寄せた一端としてあるだろう。

神奈川の社会人野球では1946年から藤沢市を拠点に活動していたいすゞ自動車野球部など自動車と野球部の関係は古い。1950年代に社会人野球部の企業は一気に増えていくのだが、日産自動車はその中の一つだ。
1950年代は神奈川にも一気に増えた時期で、例えば現在もクラブチームで活動する横浜金港俱楽部野球部のメンバーを引き連れて神奈川の名門となった日石カルテックス(現ENEOS野球部)が創部。川崎市を拠点とする日本鋼管野球部が1952年創部。1957年に三菱ふそう野球部が。1958年に東芝野球部、そして1959年に日産自動車、と一気に花咲いている。やはり日石カルテックスの存在は大きかったのだろう。
横浜金港倶楽部はもともと慶応や早稲田のOBが集まってできたチーム。現在もENEOS野球部はその色が強い。そして50年代には慶応義塾大のエースであった悲運のエース藤田元司が日石カルテックスに入社している。そこから一気に花咲いたといってもよい。
もちろんその前から例えばいすゞ自動車では中日の看板投手となる杉下茂が投げていたり、阪神の初代エースとも称される若林忠も日本コロムビア野球部で投げていたりするのだが、本格的になっていくのはこのころだろう。
ちょうどプロ野球が2リーグ制に移行し、古くのチームが揺れ、林兼商店や西鉄などが社会人野球からプロ野球への鞍替えをしていた時期、社会人野球の反抗ともとらえられる。また、現在とは違いまだ野球で、遊びで飯を食うことに対して懐疑的な考えの強かった時代だからこそ、ここまで伸びていったといえるだろう。これも1958年、立教大学から読売ジャイアンツに行った一人の若者とテレビの登場によって時代は大きく変わるのだが。

しかし終身雇用のあった当時は
「野球をきっかけに名門と呼ばれる企業に入社し、そして一生を終えられる」
こともあり、社会人野球が一気に盛り上がっていった。社会人野球が昭和に隆盛を迎えたのはなにも野球そのものの人気だけではない。当時の社会と個人における感覚や通念、企業と個人の関係を組みとっておかねばならない。

「野球をきっかけに一生その会社にお世話になることができる」
からこそ社会人野球はこれほど大きな存在になっていった背景がある。
昭和的な、社員は社歌を歌い、年上社員が年下社員を教え伝えていく、一種のギルド的な終身雇用制度の枠組みの中の福利厚生として社会人野球部があったのである。

この社会通念が社会人野球の基盤だからこそ、日産野球部の復活は現状素直に喜べない。
社会人野球が好きであればあるほど、大丈夫なのか、という疑問が先立つのだ。

日産自動車野球部が休部してからどれほどの野球部が姿を消していったか。
企業における野球部の存在意義を答えられずに企業の中からリストラされていったか。企業の業績悪化に伴ってなくなった部活がどれほどあったか。
あれほど多かった三菱重工系列の野球部も私が見始めた2017年から2チームまで減ってしまった。5チームあったはずなのに。
しかもその休廃部、統廃合をどれだけの人間が悲しんだか。野球部にかかわる人々と一部のマニアだけだ。世間は「時代の流れだ」と一言吐いて見向きもしなかった事を何度経験したか。
その現実を経験していると、明確なスパンの見えていない復活に疑問が先立つのだ。

復活してくれるのはありがたい。
しかしどこまで運用していくのか。

立ち上げるのは簡単だ。この指とまれ、でその指をつかむだけで立ち上がる。
しかしそれを運営していくには莫大な労力を伴う。
こと野球部に至れば、人、モノ、金。多くのものが動く。
社会人野球部の企業部における年間コストは10億とも20億ともいわれる。それをどうやって捻出し、どう還元していくというのか。

それが過去のような、会社は個人を一生食わせていくような終身雇用型の一蓮托生な時代であればまだわかる。
しかしそれも2000年代に入りグローバル化によって企業と個人の関係はかなり希薄になってきている。今までは「会社の福利厚生」と言われてきたそれらが「我々の給料や業績の一部を使って生きている謎の部署」という見方が強い時代に変化してきた。
野球に興味あるものはベクトルの向け方でまだ企業部を応援できるだろう。しかし興味もない一企業人はどう見るのか。そしてその興味もないものの運営のために自分たちの給与から福沢諭吉が一枚差っ引かれると思うとどう感じるのか。多くは思うだろう。
「どうせプロよりも目立たない野球部なんか作らないで給与を一万円でも増やせ」
と。

社会と個人、企業と個人を取り巻く環境が変化したように、社会人野球と企業、社会が取り巻く環境もかなり変化している。
誰もが社会人野球を「会社の福利厚生」と受け入れるわけでもない。
私も働いているとき西濃運輸のドライバーに話したことがある。
「都市対抗野球大会出れますか」
ドライバーは苦笑いしながら返事した。
「本社が勝手にやってますね。そんなのやるより給料上げてくれたらいいのに」
記憶に残った返事だ。
社会人野球と個人のシビアな関係を覗いた気分だった。

だからこそ今後の社会人野球には多くのものが求められると考えている。
今までは「都市対抗野球大会に出ること」「全日本社会人野球選手権に出ること」を目標にしてきた。
逆に言えばその二つに出れなくなればチームの休廃部を求められる噂話は多くあった。あのENEOS野球部ですら2022年までは休部の噂が立ったほどだ。
それでは今後は生き残っていけない。

ではどうするか。
企業や地域に「社会人野球部があること」のメリットをどうしたら提供できるか。
ここを求める時代がやってきたのである。

チームが強くても企業の業績が悪くなれば簡単に取り壊され、業績がよくてもチームが弱ければそれでも存在を失う。このような連鎖を続けてはならないのだ。
そうでなくとも関東や関西の企業部は一部金持ち企業の玩具化著しい。中小企業が参加することをはばかられるレベルだ。一方中国地方や九州は地元に根付く企業が必死になってチームを運営している。鮮ど市場野球部は野球部員が働いている姿をSNSに挙げて企業と野球部の接点を見せようとしていた。KMGホールディングスが三菱自動車九州と呼ばれていたころは営業が終わった後選手が練習に駆けつけて業務と野球の文字通り”二刀流”を実現させていた。梅田学園は自動車学校らしく野球部が試合に行くところで交通安全を訴えている。

このような密接な関係は都市圏の野球部にはほとんど見られない。
愛すればこそ厳しくいってしまうが「野球ができて当然」という環境でやっている印象は強い。
日産自動車野球部も同じような「野球ができて当然」というような野球部を復活させるというのか。本社の業績は決していいものではない。インターネットで何度自社がCMで使っていた”やっちゃえ日産”を皮肉に使われたか。
奇跡の復活は、あっという間にしぼんでしまうのではないか。10年もしないうちにまた休部するのではないか。そのような恐怖にも似た疑問がある。
やはり社会人野球が好きな人間として「休部」「廃部」の文字は気分いいものではない。

だからこそ、企業、地域に根差す、勝利以外のプラスアルファを提示できる野球部となってほしいという願いがある。
勝利だけではだめなのだ。地域や企業になくてはならない存在でなければならない。マネーパワーでごり押すような野球部を作ってしまえば待っているのは悲惨な結末だけなのだ。
勝利以外の答えがチームに生まれたとき、初めて社会人野球部の企業部は意味を持つ時代になりつつある。これが提示できなければ勝利以外に価値のない金食い虫の大企業が持つ玩具にしかならない。

昔都市対抗野球大会でホンダの関係者が隣に座った時、ホンダ、ホンダ鈴鹿、ホンダ熊本が立て続けに負けた時怒り狂っていたことを思い出す。
「我々の汗水垂らして作ってきた金をなんだと思っていやがる」「野球部を遊ばせるために俺たちは働いてるんじゃないんだぞ」
勝利にしか存在価値のないチームにはこの言葉が贈られる。休廃部の可能性を残しながら。

私にとっても日産自動車野球部復活の言葉は吉報に他ならない。
しかし、経験してきた、積み上げてきた多くの人生が素直に喜ばせようとしない。
だからこそ、それを杞憂にしてほしいと願うところだ。

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