1993年 鈴木一朗、打率.188

【プロ1年目物語】監督との確執、二軍で驚異の46試合連続ヒット…イチローになる前の知られざる「オリックス鈴木一朗」(週刊ベースボール)

こんなコラムを見た。
イチローという人の評伝はオリックスの時代から多く出ているから四半世紀経った現在、その多くは人に知られているだろう。特に監督であった土井正三とイチローの確執というのは四半世紀経った今でも語られる。

本当にひょんな疑問からなのだ。
「本当に土井との確執が原因で彼が二軍に落ちたのか」
という事だ。
確かにこの当時、監督と選手の関係と言われたらふと思い出す存在がいる。野茂英雄と鈴木啓示だ。フォームを弄らないことを契約条項に盛り込んだ野茂英雄とそれを直そうとした鈴木啓示との対立が日に日に深刻化していき、結果として野茂英雄は任意引退、そのあと紆余曲折ありアメリカの土を踏むことになって現在の日本野球の流れを作る起因となった。
古田敦也が現在youtubeやテレビなどで野村克也へ小ばかにした発言をしていたり(これに関していれば古田自身が野村への信頼関係がしっかりあるからこその悪態という意味もあるが)、厳格な上司とそれについていく部下という構図が崩壊し始めた時期でもある。ここから00年代、10年代を経由していく中で昔ながらの「ボス」的な監督は姿を消していき、どうやって選手と適切な距離感を作っていくか、そしてチームを伸ばしていくか、という時代にやってきたように思う。
権藤博のような無放任主義がチームを優勝に導く一方で、指示を出さないトップに派閥争いが生まれて更迭に至ってしまったり、落合博満のように黙って練習量を増やしていく沈黙のスパルタ式で強くしていったチームもあり、原辰徳、ボビー・バレンタインのような「ボス」ではない「モチベーター」としての監像像など多くの変化があった。それはプロ野球のみならずビジネス界といった日本の上司像を根本から変えていったように思う。
まさに名と共に感覚ではなく情報でマネジメントを行う野村克也像が「ノムダス」の名前と共に90年代のビジネスマンに受け入れていかれたのと同じだ。

だからこそふと思ったのだ。
本当に確執があってイチローを二軍に下ろしたのか、と。
意外と我々は当時の情報だけ鵜呑みにしてイメージだけで語っているのではないか、と。
なので例によってウスコイ企画さんの「日本プロ野球記録」を開いた。

代打鈴木一朗、打率.083

コラムは1993年のものだったから1993年オリックスを開くと確かに鈴木一朗の名があった。打率.188。燦燦たる数字だ。ただ打率というのは元々ある数字を割って出した、統計学の古典みたいなものだ。そこで64打数12安打、という数字を見つける。
ここまでだと確かに確執があって二軍幽閉されたように見える。土井正三がわがままなイチローに嫌気がさして適当な理由をつけて二軍幽閉したように見える。

次にコラムで書かれた試合のスコアを見る。
開幕の4月10日。ロッテ戦で開幕投手の小宮山悟(現早稲田大監督)にいいようにやられている。この時の9番センターに鈴木一朗はいた。
大抜擢だ。この年まだ二年目。まだ開幕戦という言葉の重みが今以上に重かった時代、20歳の外野手を外野守備に定評のあった本西厚博を押しのけて入っているのだから。
しかし結果は3打数0安打1三振という無残なもの。

翌日4月11日。何を思ったか鈴木を一番センターで起用。
そこで4打数1安打。93年初ヒットを出す。言い換えればここからあと11安打というわけだ。ではここからが重要となる。

4月13日。西武ライオンズ戦に代打で途中出場。
2打数2三振を喫した藤井康雄に変わって出場し2打数0安打1三振。
4月14日4月15日は守備でのみ出場なため打席無し。いかに西武戦では手を抜けないかがよくわかる。期待の若手を押し出すほど余裕はないのだ。
4月16日、日本ハムファイターズ戦で全く打てていない藤井康雄の代打で1打数0安打。
4月18日、高田誠の代打で出て1打数0安打。次の捕手が出ていないことからも9回に代打に出されて代打失敗と読み取れる。ここで打率も一割を切る。
4月20日4月21日の近鉄バファローズ戦では守備固め。
4月23日の福岡ダイエーホークス戦で久しぶりに代打に出されるものの代打失敗。
4月24日の代打失敗を最後に一端姿を消す。打率.083。

誰もが想像するイチロー像からかけ離れた打率が出てしまっている。13打数1安打2三振……。よくもまあ4月終わるまで使い続けたものだ。むしろ呆れるほどだ。
もし現在でこのような成績を出している選手を代打に出せば大騒ぎになるだろう。それこそ今年のオープン戦辺りで打撃の上手くないと言われる後藤駿太が打席に入っただけであれこれ言われる時代だ。全く打てていない藤井康雄の代打だったとはいえどっちを出しても変わらないくらいの冷たい目で見られていても仕方ないし、当時だとイチローよりは同じ年にドラフト一位で入った上にかなり騒がれた田口壮がいたのだから、どこぞやの高卒に任せるより田口に経験を積ませろと言われても仕方ない。

確執で二軍に落ちた、とは正直言いにくい。
むしろ当然の成績で落とされたとすら思える。

打てない男、鈴木一朗

そこから5月21日の西武戦で復帰するも1打数0安打。
そこから打てない日々が続く。外野手に転向していた田口の守備固めに起用されるなど、やはり打撃だけが問題という感じに収まっている。
ただ面白いことに鈴木一朗はほぼ毎試合出ている。たまに代打という形ではあるものの守備固めや代走では必ずその姿を見せる。
田口と比べて打数は少ないながらも試合数は多いのはそのあたりにあるだろう。

ここでふと疑問が芽生える。
打撃に関しては信用されていないながらも多くの試合で出ているところから考えるに、本当に確執があったのだろうか。
後年イチロー自体も否定しているが、確執があったと思い込んでいたのはむしろまだ世間も知らない若者イチローだけで、あとは勝手に皆思い込んでいるだけではないだろうか。なんなら新人時代から同じくらい一軍に出ていることを考えると土井は本当にイチローが虫の好かないやつだったのだろうか。

その後も段々と代打などのスーパーサブで出場して6月7日の日ハム戦では打率なんと.053。誰がどう見たって打てない男扱いである。二軍時代から見ている生粋のファンか未来の見えている人以外では彼をスタメンに添えるなんて口が裂けてもいえないだろう。数年後スタメンか本西の後釜に困る事はない、くらいの感覚ではなかろうか。ヒットメーカーの姿ではない。

だが、6月12日の近鉄戦、突然一番センターでスタメン抜擢。
そして野茂英雄からホームランを打っており、これが多くの記事に残される。打率.053の男が急に野茂からホームランを打つ。これを後の姿を見るか、打撃下手のまぐれと観るかは難しい。我々は今のイチロー像を知っているから「この頃から才能があった」とみがちだが、少なくとも数字だけ並べてみるとその感想に至れる人間は一体何人いるだろうか。
下手したらスーパーサブ一生の思い出に残るホームラン扱いされても不思議ではない。

翌日6月13日も一番センターでスタメン。しかし2打数0安打といういつものような光景でそうそうに見切りをつけられている。
しかしこの時期から少しずつスタメンで起用されている。
6月16日のダイエー戦でもスタメン、3打数2安打と打撃が上がり始めている。6月18日の西武戦でスタメンというのは信頼とまではいかずとも期待されているのがうかがえる。90年代前半の西武戦というのはそれくらいに重い意味がある。そこでも3打数2安打。

ここで数日見ると意外と気付くのだが当時のオリックスは一番固定できる存在が不在で田口や本西、勝呂などと一番打者を争わせているのだ。
この安打調子が安定していたらそのままスタメンをかっさらっていっていただろう。しかし6月20日の4打数0安打から一気に旗色が悪くなる。
6月22日のファイターズ戦に一番センターで出場しているが一打席で本西と交代させられている。ここだけ見ると確執があったように映るが翌日6月23日、偵察要因として出された酒井勉の代打(事実上のスタメン)で4打席立たせてもらっている。そこで0安打。
ここでスタメンから外されていく。

ここまで書いたらなんとなくわかるだろう。
この時点での鈴木一朗は別に監督と確執があったわけでもなんでもない。単純に一軍と二軍を行ったり来たりする、どこにでもいる期待の若手選手、悪く言えば1.5軍でしかなかったのだ。

土井正三は本当にイチローが嫌いだった?

土井正三がなぜイチローをスタメンに扱わなかったか。
それほど難しい質問ではないだろう。
それはオリックスの貯金グラフからも読み取れる。

日本プロ野球記録 1993年パリーグ貯金グラフ/ウスコイ企画より引用

ダントツで下振れしているダイエー、ロッテはとにかく調子のいい日ハム、近鉄と目下Aクラス争いをしていたのが6月だ。ここから8月にかけて特に近鉄と激しい叩き合いをしており、結果八月中旬に近鉄を下し三位につけている。それでも9月も中旬にかなり接近を許している辺り余談を許さない状況だ。
すでに若手を育てるなんてことをやっている余裕はない。イチロー、そうでなくても田口といった才能の開花を待っていられるほどオリックスに余裕がないのだ。

また、当時のチーム事情も絡んでくる。
91年にブーマーの退団後にブルーサンダー打線が崩壊。翌年入ってきたケルビン・トーベなどの活躍もあまりせずブルーサンダー打線の幹を担ってきた石嶺和彦、藤井康雄が30を超えベテランの領域へ。もはやブルーサンダー打線が崩壊の兆しを見せていたタイミングであった。
土井監督の中にはもはや「世代交代」の言葉が頭を横切る事態になっているのが読み取れる。
その中で91年、田口壮や萩原淳、鈴木といった新たな時代を担うであろう選手たちが入団。田口を中心としてポスト藤井に萩原が、ポスト本西に鈴木が、というようなイメージ図があったのではなかろうか。結果としてポスト本西に田口が収まり、鈴木は全く違う存在へとなっていくのが歴史の面白いところだ。

そう考えると若手にあまり無理をさせようというイメージはなかったのではなかろうかとすら思えてくる。変に活躍して変な手癖が付くよりも軸を作って数年後のオリックスの中軸へ、というイメージを持って育てていたというほうが実態に近い。
一軍に登場させてスタメン起用もさせながら専ら守備走塁を基本として、代打にも出す、という起用法は確執があったというよりも一軍で吸えるものは吸っておけ、くらいの感覚が強かったのではなかろうか。
事実田口もスタメンがありながらも基本は代打や守備走塁だ。使うよりも育てる意識がかなり強い。

それが一瞬ぐらついたのが6月の本当に苦しい時期でもあったように思う。事実ふつうの監督なら3打数2安打を複数行ったタイミングで二週間ほどスタメン固定なんていうのもありうる。よしんば一番でなくてもだ。
育成とペナント争いの二つが交差して独特の扱いになっているのが見受けられる。
さらに言えば土井は監督として契約最終年、来年の契約が絡む時期にチームとしても絶対的なスタメンのいない、どこかがずば抜けていながらどこかが足りない戦力を埋め合わせていく中でイチローに育成を使えるほどではなかったのではないか、とさえ思える。
それは土井正三のイチローに対する多く残されたコメントからも読み取れ、彼に確執があったというよりはむしろまだはねっかえりの強い若者鈴木一朗の過剰すぎる自信がそう思い込ませていただけではなかろうか。むしろ彼が安打マシーンではなく人並みに傷ついたり人並みに自意識過剰になったり、といった人間らしさが垣間見えてくる。
鈴木一朗もまた若かったのだ。

後から作られた虚像の物語、イチロー物語

ではイチローと土井正三の確執とはどこで生まれたのだろうか。
少なくとも当人同士では起こりえない。起こったとしてもイチローの若さゆえに起きるはねっかえりから来るものでそれは年を取るとともに「アレこそが若さであった」と思う程度のものだ。

そうなると当人以外のところから発することになる。
誰かが意図的に組み立てたのである。

確かに監督としての土井の評判はあまりよくない。
「口を開けば巨人はどうこうという」
という事を嫌っていたオリックスの選手は少なからずいる。

一方で彼が在籍した三年間はAクラス常連のチームであったことを考えても決して弱いチームではない。むしろ91年から崩壊が始まったブルーサンダー打線からイチローと「がんばろう神戸」までの繋ぎとしては立派すぎる成績だ。翌年も監督継続の話が出ていてもおかしくはない。
しかしチーム編成ともども決め手に欠けていたのは事実でやはり94年のイチロー登場までを待たねばならない。阪急の色がどんどんと消え、オリックスブルーウェーブという新たなチームが生まれてくるまでの一番苦しい時を支えた影の監督である。
個人的に嫌う人がいてもすべてを否定されていい監督ではない。

だとしたらどうしてもマスメディアの名前が出てきてしまう。
成功者「イチロー」とそれを見出せなかった旧時代の遺産「土井正三」
これほど対になった存在を見逃せるわけがなかろう。

過去に合った発言などを掘り返して点を結び、一つの線を作った。
丁度野茂と鈴木啓示の確執があったから同じように「未来を見据える若者と過去しか重んじない老人」という構図を描きたかった人々の差し金というほかない。
最早イチローと土井の確執はイチロー本人が否定している。(才能見いだせなかった?イチロー「そうじゃないのにねえ…」/スポニチ)
のにも関わらずこの言説を今日まで見るという事はイチローと土井がそうであるかどうかではなく「そうであってほしい、もしくはほしかった」人が間違いなくいたのだ。

結局そういう人々の思惑に乗せられて
「成功者イチロー」と「敗北者土井正三」
を多くの人間を巻き込みながら作り上げた。

これらの記録を見ているとそうとしか思えないのである。

終わりに変えて 大谷翔平の豪邸

話が大きく変わってしまうが、こういった感想に至った時、私は大谷翔平の豪邸を思い出してしまった。
大谷翔平、“引っ越さないまま”12億円新居売却へ フジと日テレの報道に激怒、不動産会社の情報管理体制にも不信感

どうしても面白いものを撮ってやろう、金になる記事を作ってやろうという思いが多くのものを踏みにじった姿を見てきた。
どこで、誰が、どのように聞いたのかを無視して「記事に書かれたから」を武器にめちゃくちゃな言説を迫ったことも多々ある。思い込みが思い込みを呼び、偏屈な物語を生み出す。しかもわかりやすくそぎ落とされた内容であるから普段物語を接していない人々にもわかりやすい勧善懲悪ものになっていることが多い。あらすじで正義と悪が伝わればそれで十分と言わんばかりの意地汚い物語がさも「ノンフィクション」のように歩き回ることになる。

こういう利己的な主義があまりにも蔓延った事がこれらを呼んだのではないだろうか。
自分たちに都合のいいところばかり切り取り、それこそ「馬鹿にでもわかりやすい」ような内容に改造し、その馬鹿たちから金をとる。
それがこのような事態を招いているのではないだろうか。

マスメディアは何を伝えていくべきなのか、どうきちんと内容を精査するべきなのか。
こういう所から一つずつ誠実に向き合う事こそがジャーナリズム、ひいてはライターの本懐なのではないだろうか。

イチローは別に土井正三と確執があったから二軍に投げられたわけではない。
実際試合に出しても結果が伴っていなかったから二軍に落とされているし、なによりかなりその素質を買われていることがデータから見受けられる。

そういう事実を「物語」のペンキで塗りつぶしてはならない。

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