私が「ノーモア近鉄」と叫ぶ人々を避ける理由 ~事実からものを捉えるために~

もはや近鉄バファローズの話を書いたので今更あべこべ書いても山室寛之著の「2004年のプロ野球 球界再編20年目の真実(新潮社)」より濃いものは書けないだろうから語ることはしない。
球界再編問題を読む際は一度は読んでほしい。というよりはこれを読んでいない人の球界再編問題語りはそれくらいの底の浅さくらいのきつい目で見てもよいといっても過言ではない。遂に球界再編問題を「歴史的事実」として捉えられる時代がやってきたことを証明した本であると思う。

「歴史的事実」として捉える。
これが当事者やその時代を見てきた人の中でやるには難しい行為ではある。目の前でつけられた傷を呼び起こされ、その時の感情が蘇ってきてしまい、ついその感情のまま動いてしまう。トラウマを引きずり出されるとはそういうものだ。
だが一方で思う事もある。それは球界再編問題をもう自分たちのものとして扱わない層が出てきたという事だ。
考えてみれば2024年。ミレニアムベイビーと呼ばれた2000年出生の子が社会の一戦に立っていたり大学院などの研究機関で鎬を削っている時期だ。我々が想像する若者の中にはすでに球界再編問題はおろか「大阪近鉄バファローズ」という球団が過去あった球団になりつつある。

話は変わるが私が20代の頃、職場でアルバイトの子と話していた時衝撃を受けたことがある。
その彼は学生で、ちょうどPSPという携帯ゲーム機でモンスターハンターが流行っていた頃だ。ゲームの話になり小学生の頃遊んだゲーム機の話になった。その時彼らの口から出たのはプレイステーション2であった。
我々スーパーファミコンで遊んだ世代なので、せいぜいスーファミは遊んだことはないにせよプレイステーション2の前に流行ったプレイステーション1、いわゆるプレステで遊んでいた世代だろうと思い込んでいた。
しかし90年代も中ごろに生まれた子たち、今でいえば30代に入るくらいであろう子たちにとってプレステはギリギリ当たらず、それどころか我々にとってまだまだ現役稼働という印象の強かったプレステ2が小学生の時に遊んだ思い出のゲーム機にカテゴライズされたのだ。
この時点で私とその学生バイトにはかなりのギャップ差がある。
我々の想像する「恐らく彼らが遊んだであろうもの」と彼らが実際遊んだものにはかなりの差が生まれているのだ。

これは球界再編問題にも同じことが言える。
例えば松坂大輔と言われたら我々アラフォーに入った世代には「怪物投手」というイメージがあるが、今やっと社会人として出てきた若者には「晩節を濁した、やけにニュースで取り上げられるロートル」でしかないのだ。または知識としての「怪物投手」という印象のほうが強いかもしれない。現在はyoutubeなどで松坂大輔のプロ初年度のピッチングくらいは観れるから知識として怪物投手と知っている可能性はある。
しかし、実感は伴わない。
私がいかにベーブ・ルースの実情を成績や文献から得ても、それはあくまで事実から照合して得られた感想、上質に至れば「論」でしかない。息を吹き込むべき実感はない。
まさに大河ドラマを見てその時代に思いを馳せる行為に近しい。
アラフォーである我々やその上の世代にとって近鉄バファローズの消滅や球界再編問題は生々しい体験であるかもしれない。
しかしもうそういう場所にいない人が多くいるのも事実なのである。

私は大学院卒なのだが、指導する教授によく言われていた事がある。
「事実だけを述べなさい」「言える事だけを述べなさい」
と。私は万葉集を研究していたのだが、だからこそ教授は口を酸っぱくさせながら言っていたものだ。
理由はいつもこうであった。
「万葉集は残された文献の関係上どうしても比較できる資料が少ない。古事記や日本書紀、風土記に懐風藻といったものくらいしかない。勿論隋唐の文献を扱う事は可能だがどれだけ文献として入っていたか、知識層の口伝でどれだけ伝わっていたかの確証がない。それゆえに唐と西洋の関係を示唆するシルクロードの交流を経由させてしまえば何でも言えてしまう。日本の話をしているのに西洋の文化との影響を指摘するような、ハチャメチャな理論も成り立ってしまう。それは私にいわせたら学問ではない。萬葉集を扱った解釈論でしかない。地盤にあったものをきちんと再分析し、この歌集から読み取れるものはなにか。どこまで言えるのかをきちんと考察してこそ萬葉集を扱った学問となる。解釈の幅を広げてなんでも言っていいような形に進んではならない」
要約すれば「何でも言えるからこそ、自分できちんと言える限界を決めておかねば意見は理屈を飛び越え滑稽なものに変質してしまう」というものであった。これが私の何事にも対する基礎的な考え方になっている。

こういう事もあって常々私は飛躍した論理というものをしないように心掛けている。
表現者としてはどうしても視点というバイアスがかかる。それが表現の自由である。ただ、それはその表現を受け取る側への影響というものが必ず発生する。私が一本読みとして佐川和夫氏や池井優氏といった多くの方々に影響を受けているように誰かの言葉を受けて誰かの考えを受け取る作業が必ず発生しているのだ。
だからこそ発言をする、特に理論を展開する人間は「責任」を背負う必要があると考えている。適当な意見であればあるほどその意見に影響、悪く言えば迎合される人がいるからだ。まだ自分の中で理論の確立されていない未熟な人であればその人の意見に支配されるリスクだって背負う。
「あんなトンデモな意見を信じてしまったばかりに元の位置に戻るまで随分時間を費やした」みたいな事例が増えていくのだ。
過去萬葉集研究が古代朝鮮語で読めるという、論というにはいかんせんずさんな突飛出てバイアスが強くかかってしまった意見に流されてしまったような事が往々にして起きている。インフルエンサーにちょっと拾ってもらえたからというだけで暴論とも言いかねない意見を諸手を振って歩くことができる時代が訪れている。というよりは特にSNSではそれを何度も経験してきたのではなかろうか。特に野球界隈では。(変化球を調べていた時期もあったので数年前の週刊ベースボールにおける変化球特集であるSNSでやたら有名だった、新しい変化球が見つかったと暴論を騒ぎ通して書籍を数冊出した野球評論家ともいえないアマチュアに変化球の将来的な文章を書かせたときに「この雑誌の信頼も地に落ちたな」とは思ったものだが。多くのプロアマ問わぬ野球選手が御社で多くの投球や変化球の書籍や特集を組んでいたのに、あれほどずさんでいい加減な彼の書籍を読んで何も思わなかったのか)

無駄を省こうとインターネットで調べ物をしたらそのバイアスによって歪み、修正を伴わせることでさらに時間のかかるような時代に入っている。
それを「きちんと調べなかった未熟者の自己責任だ」と切ってしまうのはあまりにもよくない。
我々の生きた時代のように第三者の目が入って適時修正を加えられた、すなわち精度のある文章ばかり読んでいる時代ではない。
ともすれば暴論に近く誰の目も通していない、聞くに耐えられない意見を知識として植え付けるリスクのある時代に入っているのである。
SNS時代というのはそういったリスクを多く孕んでいる。知識を持っている人間には情報を早期に受け取りやすいいい時期になった。しかしそれは一定の理論をきちんと所持し、相手の論に対してきちんと分析できる人間にとっていい時代になったというだけで、それを持たない人にはより野蛮な理論を持たせる遠因にもなってしまう。暴論が更に悪化してさらなる暴論を生む、時代の逆行を行う可能性だってあるのだ。

特に若者は年長者や識者の意見に従う。
その世界の第一人者と言われたり、それこそSNSで有名というだけで信奉する時代が来る。中日ドラゴンズを扱ったインフルエンサーがそれこそ自爆したではないか。彼が自爆するまで多くの人間が彼に対し妄信に近い感覚を持っていた。手を出していいところをはるかに超えた部分に手を出しているのに誰も止めようとしていなかった。
だって有名だから。有名人の言っていることは原則的に間違っていないから。間違っていることは(多分自制心が働いてるだろうから)言わないはずだから。
こういうマインドが先走ってしまい、結果最先端と思われていたことが一人の人間の思い込みであった、なんてことは少なからず発生している。正直それが嫌になって最近はあまり野球の話をしていない。生活の変化があって自分にあまり余裕がないのもあるけど。

特にSNSは「フォロワー数」や「引用数」といった数字が簡単に出てしまう。それは相対値的なもので意見の絶対性を持たないものなのに「絶対値」と捉えてしまう人もいる。とてもじゃないが暴論以外の何物でもないものを「数字の絶対値」を矛に変えて相手を突き刺すインフルエンサーを何度も観てきた。何度となく
それはあなたの信者数であって、あなたの意見の絶対性ではありません
と言おうとしたことか。そういう馬鹿げた理論をぶん回す人とまともな議論が出来るわけもないだろうと無視したりさっさと逃げ帰ったことは幾度となくあるが。君子危うきに近寄らず、三十六計逃げるに如かずという言葉の重さをついつい感じてしまう。

声の大きさだけがSNSの絶対的主張になることが多い。
その人たちの声がどのように大きくなったのか、というところを避けてしまった結果、そのインフルエンサーの言葉が果たして事実に近いのか、暴論なのかを吟味する時間が本当に少なくなっている。
そこに出版業界の不況(というよりはビジネスの変換が出来ていないことによる時代のずれ)が重なってそういう人たちがきちんと編集したかも怪しい文章が社会に出てしまい、なお増長させてしまう。出版業界も口に糊するためにそのインフルエンサーの信者でもなんでも売れればいいからそういう機会が横行する。それは知識を持っている人ほど「その出版社は信用できないトンデモ本を出す場所」と避けていくので結果として自分の首を絞めていくのだがそれを知ってか知らずか行う。それが暴論の権威付けになっているにも関わらず。万人が読み考察の手習いとする良書が隅に追いやられ、読み人が考察をしながら賛否を選ぶような、読み手を選ぶ悪書が諸手を振って歩いている。

そんな時代なのである。

勿論過去がよかったという話ではない。
しかし、数字にモノを言わせた暴論が闊歩することはかなり増えている。世間を揺るがす一大書籍や意見は姿を現さなくなりつつある。しかし野球界隈というジャンルとみれば大きいが世間の枠から見たら小さい世界や、それより小さい界隈で同じようなことが無数に起きている。
最早数字に支配されているのだ。数字に踊らされ、先に進まない。まるでウィーン会議を揶揄した言葉が突き刺さってしまうくらい世の中は数字を全ての実態として捉えてしまい、それが暴論であるかどうかの示唆を行わない。

有名なあの人が言っているからこうなんだ。
有名な人が「大阪近鉄バファローズの歴史は繰り返してはならない」と言っているからそうなんだ。

これでは世の中は何も変わらない。
何がよくて何が悪かったのか、今後どうしていくべきなのかの本筋が感情の前にかすんでいる。

私は近鉄バファローズが消えてなくなってよかったとは思っていないが、近鉄バファローズが悲劇であったとは思わないしそれを繰り返してはならないとは全く思わない。
歴史的必然性の中でそれが起こっただけの話で、近鉄バファローズが日本から消えても我々はおろか近鉄沿線に住む人の多くにさえ影響されていない。
影響されたのは近鉄バファローズやパリーグ、プロ野球に関係した人々で、そうでない人には世間の一事情でしかない。
それは福岡で新日鉄八幡野球部が消えた時に「福岡ダイエーホークスがあるから別に」というくらいの感覚しか持ちえなかった福岡県民みたいなものだ。
むしろホークスが優勝してダイエーが優勝特価を行うかのほうがよっぽど大切だった。
それが世間だ。

むしろ歴史的必然性の中で誰がどう動こうとしたのか。誰がどう動いたからこうなったのか。世間はどう流れていったのか。
こちらをきちんと吟味し、分析を得た結果後世に残していく必要性のほうが高い。それこそ「叡智」であり、智の本懐であり、数字の暴力から解放された真理の一端ではなかろうか。
その真理を残していくことこそが我々智を持って表現をしていく表現者の行うべきことであり、古傷から得たトラウマにおののいて「ノーモア近鉄」「貶められてきたパリーグの歴史」などと感情に先走ったよくわからない理論を展開することを行う事がわれっわれの行うべきことではない。
それは居酒屋の一角で親しき人と飲みながら言うべきことであって、表に出して賛同を集め、さも「その考えが当然」というような考え方の押しつけをすることは真理ではない。それは「王様がこういっているからこうするべきだ」と真理を追い詰めていかず、一部のものだけを絶対視する人治主義のやり方と変わらない。王様を数字に変えるだけで今やられていることの暴力性が理解できると思う。

そういう意味では球界再編問題というのは自分たちのスタンスを一度見つめなおしてくれる可能性を秘めている。
そしてその人々がどの時代に取り残されているのかを見つめる試金石にもなりうる。

最後になるが私の学び舎であった別府大学の建学の精神である「真理はわれらを自由にする」を出す。
別府大学は今ある多くの模試からすればいわゆるFカテゴリーに分類される、いわば手を上げれば受かるような「Fランク大学」という地位に扱われるだろう。その大学を出たからと言って持てはやされるような大学ではない。むしろ「Fラン大www」と笑われる可能性すらある。
しかしその精神は国会図書館の「真理が我らを自由にする」と同じところに端を発している。我らを自由にするのは真理である。感傷などによる論の暴走や数字による意見の絶対性ではない。

今日大学の教育は必ずしも高度の研究を目的としないというのが通説であるが高等普通教育に課せられた問題の一つは、より高き教養、社会人としての生活によりよく、より多く寄与することのできる人間の育成である。

別府大学・建学の精神

我々は真理を追究し、一つの到達点でなければならない。
「近鉄バファローズを繰り返すな」と蓋して若者から真理を奪い取るような真似はしてはならない。
だからこそ「歴史的事実」として捉えていく必要性があるのだ。
まず我々当事者たる大人から。

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