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中西太のいた福岡 ~西鉄ライオンズの残り香~

中西太が90歳という年齢で往生をした。ついこの前まで打撃指導をしていた印象があったから随分と時間が経ったものだ。寂しいとは思うものゆくかはのながれはたへずして。輪廻転生のサイクルに入ったという事なのだろう。

残念ながら私は中西太の現役時代は知らないし、コーチと言ってもイマイチピンとこない。土井正博といいライオンズ強打者が打撃指導に上手だった、という印象の他ない。それをやれ記録だメモリアル試合だ、なんて語ってもリツイートの足しにはなるだろうが、所詮は実感のこもったものではない。そんなものは万夫に任せておけばよい。

では私と中西太の接点はなにか、を考える方がよっぽど意味のある文章になると考えたのだ。

1,福岡のクソガキにとってプロ野球は巨人とダイエー

福岡はホークスの前にライオンズがあった。

なんてのは土台小学生のクソガキ達には理解できず、もう福岡のほとんどがダイエーホークスの色に染まり始めていた頃だった。
FBSで流れるプロ野球情報はとべとべホークスだったし、そもそもホークス以外はイマイチピンとこない。ただエース工藤公康とリーダー秋山幸二はこれ以上なく知っている。
1990年代も後半に差し掛かろうとしていた福岡はそんなものだった。
主婦はホークスが優勝するとダイエーが安くなるから野球に興味なければ選手の一人も知らないけど応援していたし、テレビをつけていたらなんだかんだいざ行け若鷹軍団が流れていた。
相撲も若貴の時代であったから福岡は”ワカタカ”の場所だったのだ。

だからもっぱらライオンズなんか興味なかった。
恐らく私たちアラフォーに足を踏み入れた世代にとってライオンズが注目されるようになったのは間違いなく平成の怪物、松坂大輔が入団してからだ。
少なくとも福岡では「ダイエーホークス」が全てであり、それ以外は知る人ぞ、というものだった。

2,親戚のちょっとした知らせ

「松井選手に会えるかもしれない」

母がそんなことを言う。
そりゃ私や弟は喜んだ。片親だったのもあり野球中継は観る習慣がなかったとはいえ、コロコロコミックで河合じゅんじが「ゴーゴー!ゴジラ!マツイくん」を連載していたし、プロ野球珍プレーでは必ず巨人特集があった。
その中でも松井秀喜という選手の存在は別格であった。
当時のコロコロコミックを読んでいるクソガキ達にはプロ野球を知らなくとも「松井秀喜」を知っているくらいの存在だったのだ。

しかしよくよく話を聞いてみるとおかしい。
マツイはマツイなんだけど、ライオンズのマツイらしい。

というのも祖母の親戚がライオンズの応援団に所属していたらしく飲み会に参加させてもらえる可能性があった、という事なのだ。

今となってはとんでもないのだが、小学生の、ジャイアンツとホークス以外はほとんど何も知らないクソガキにとっては
「どこのどいつとも知れない、松井秀喜と同じ苗字の、いわば偽物」
に会わされる気がしてすごく嫌な気持ちになった。
まだトリプルスリーなどは達成しておらず「知る人ぞ知る期待の若手」くらいであったものの、今なら土下座してでも行かせてほしい案件なのに、小学生の無知とは恐ろしいものである。

おふくろが口を酸っぱくして
「マツイ選手のファンです、っていうのよ」
と言っていたのを今でも覚えている。

しかしクソガキの思いは通じてか後援会との飲み会は台風によってなくなってしまう。
今となっては千載一遇のチャンスもいいところなのに、当時クソガキの私はほっとしたものだった。少なくとも「偽物のマツイ」に好きですと忖度たっぷりのセリフを言わなくてよかったのだから。

後に弟は中島中村コンビから西武ファンになっていくのだからそれがなくかったことはあまりにも重い結末になってしまうのだが。

3,大学以降

大学生にもなるとそこそこOBだの野球史の知識はついていたので福岡にライオンズがある事も知っていた。祖母の親戚がなぜライオンズの後援会という、ダイエーホークスの都である福岡でやっていたのか、も理解出来た。むしろ年齢的にはそっちの方が正しい、というほどに。
私は大学時代を別府で過ごしたので勿論稲尾和久を調べたりした。当時別府球場には稲尾和久記念館というものがあり、そこに自転車一つで向かった記憶もある。
豊田泰光が講演をしているという飛鳥Ⅱが港に止まっているのをぼうっと眺めていた事もある。
つくづく自分より年上の世界では九州はライオンズの土地であったのだと感じた。

また当時自分の一つ下に当たる岩男利弘がドラフト三位で別府大学からライオンズに指名された。
奇しくも付属高校である明豊高校からはホークスのドラフト一位で今宮健太が指名された。私の所属した大学に多くの花が咲いた時であった記憶がある。
私もまたトランペットを片手に東京ドームや甲子園を渡っていたから当時の試合に音が残っていた。youtubeにも自分の音がかかっていたから、少しだけ鼻高々になった記憶もある。今となっては懐かしい話だ。

もう亡くなった叔母が当時西鉄バスで働いていたためそういった関連のものはないのか聞いたこともある。特に叔母は西鉄でも唯一の女性高速バス乗りであったことを自慢していたからその立場を利用できないか、と画策したものだった。
結果としてなにも出てこなかったが、改めて福岡と西鉄、そしてライオンズの密接な距離感があったことを覚えている。

段々と薄れつつではあったが、九州にライオンズの香りは間違いなく残っていた。

4,変わりゆく福岡、ライオンズの残り香

そして数年前、西鉄が西鉄ライオンズの軌跡展を行った。
丁度無職だった私も帰省がてら地元の先輩たちに会うためにふらふらと向かったものだ。失われた球団、西日本パイレーツを購入したのもそこだった。
まだ社会人野球時代の、いわゆる西鉄球団時代のユニフォームが目玉だった。そこで師匠筋にあたる大学院時代の先輩が西鉄ライオンズ研究会と交流を開始した。
常々九州の野球を取りまとめたいと言い続けていた先輩であったからいい縁になったのではなかろうか。

丁度天神は再開発が始まり、ビブレ天神の取り壊しが告知されたばかりであった。よく行っていたジュンク堂がなくなってしまった事に寂しさを覚えたものだった。その先輩と待ち合わせる時はいつもジュンク堂であった。

西鉄ライオンズの軌跡展では天神がライオンズにとって重要な拠点であると言われていた。
その天神が段々と再開発されていく。
丁度都市の再開発でららぽーと福岡の開発に合わせて実物大νガンダムが福岡の話題を攫っていた。
段々と天神が落ち着きはじめ、新しい風が福岡に吹こうとしている。未だ変わらないのは天神愛眼ビルだけだ。

イヤホンからはチャゲ&飛鳥の「NとLの野球帽」が流れている。
「咳き込みながら、俺も大人になったんだ」
その歌詞が何だか懐かしくて、いとおしくて。

中西太がこの世を去る様に、福岡も少しずつ変化していく。
福岡の象徴であった天神も変化を始めていく。
それでも福岡には多くの西鉄ライオンズを思い返す香りをどこか懐かしく、それでいてはっきりと残している。

チャゲが歌う。
「なくしたものは景色だけさ。一緒に歩かないか」
そうやって人が歴史に紡がれていく事を思わずにはいられなかった。

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