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小説「自動販売機まで歩く。」

 隣の家の先輩を、まだお姉ちゃんと呼んでいた頃から、僕たちはよくジュースの自動販売機までの往復路を一緒に歩いた。

 僕たちの住む田舎は自動販売機が少ない。一番近い自動販売機でも、その往復路は小さかった僕にとってはちょっとした冒険だった。

 僕たちは、先輩が飼っていた犬のリードとそれぞれ百円玉を持って自動販売機まで歩く。僕はそこに時々、形のいい枝や買って貰った模型を、先輩はお菓子の入った袋や道端で摘んだ花を持って。

「たべる?」

「ありがとう」

 先輩がくれた桜色の飴玉を頬張り、道端の夏草を枝で薙ぎ払う。飛んできた秋茜を先輩が指に留め、犬の背中の雪を優しく払った。

 持って来た硬貨を投入口に入れ、背伸びしてオレンジジュースのボタンを押す。がたん、と言って落ちて来た橙色の缶を頬に当てて先輩が目を細めた。

 自動販売機の脇のブロックに座ると、目線が同じ高さになった犬が喜び先輩の顔を舐め、僕は横目でそれを見ながら外したプルトップを舐める。オレンジと鉄が混ざったような味がした。

「それ、ちょうだい」

「なめちゃった」

「いいよ」

 僕から受け取ったプルトップを指輪みたいに指にはめて先輩が笑い、犬はそれをくんくん嗅いだ。


 ──夢中、夢中よ······。

  日曜の朝、スニーカーをつっかけ玄関の引戸をガラガラと開ける。門をくぐって道に出ると先輩が犬を連れ塀にもたれて立っていた。

「一緒にいこう」

 もたれた壁からひょいっと起きて、先輩が小首を傾げて言う。

 同じ中学に入ってお姉ちゃんを先輩、と呼ぶようになった僕は返事を返さない。返事を返さない代わりに犬のリードを受け取った。ポケットには百円玉。

「部活、どう?」

「まあまあ」

「勉強は?」

「そこそこ」

 僕たちは蝉が鳴き始めた田舎道をぽつぽつ話しながら歩く。下を向いて歩いていると、白いスニーカーの靴先が色を変えた。

 畦道の向こう側、大きな入道雲が日を遮り、前をてくてく歩く犬のお尻の白い毛も、横目で覗いた先輩の白いシャツも横顔も、束の間碧く染まった。

「どうしたの?」

「別に。それ、なに?」

 目が合って慌てて視線を落とすと、先輩の薬指には銀色の輪。入道雲がみるみる高くなり蝉の声が少し遠くなる。白い細い手に、雲の影を写して灰色に光る質素な指輪。

「誕生日にもらって」

 先輩が、すっと手のひらで隠すように指輪を撫でる。そんな仕草がなんとなく見たくなくて、前を行く犬のお尻に目を向けた。

 ふわふわの尻尾が右に左に揺れる動きに合わせて、僕も瞳を揺らした。

 自動販売機に硬貨を入れる先輩に背を向けて、僕は屈んで犬の背中をわしわしと撫でる。尻尾を振って目を細くする犬の顔が可愛くて、空いた手も使って揉むように撫でた。

 缶が落ちてがたん、と鳴ると、細くなっていた犬の目がまんまるに開かれる。

「女の子だよ?」

「え?」

「友達、指輪くれた相手」

 ふうん、と気のない返事のフリをして立ち上がると、ちょっと前まで見上げていた先輩の顔がその頃は同じ高さにあった。先輩が指輪をはめた手でプルトップを開け、南国味のジュースを喉を鳴らして飲む。僕は相変わらずのオレンジジュース。

「おいしいのそれ?」

「ちょっと酸っぱいかも。飲んでみる?」

「いい」

「半分こしよう。オレンジも飲みたいの」

 奪い取られるように僕の手からオレンジジュースが消え、代わりに今日の空みたいな色の缶を持たされた。先輩は僕の飲みかけのオレンジジュースに口をつけて、美味しい、と言う。先輩の寄越したジュースはやはり少し酸っぱい気がした。


「こんばんは、連れてきますよ」

 先輩の家の縁側の窓から僕は声をかける。先輩のお母さんがよろしく、とスリッパをパタパタ鳴らし台所から顔を覗かせた。ポケットの百円玉を確認して、庭の杭に繋がれ丸くなって眠っていた犬のリードを外す。

「散歩だぞ」

 背中をわしわし撫でると先輩の犬は目を細くして口を開けた。

 街の高校に通う先輩の帰りは遅い。

 近くの高校に通う僕は、先輩の代わりに犬を連れてひとりで自動販売機まで歩く。

 昼の間、田んぼで落ち穂をつついていた渡り鳥が、近くの溜池に群れて飛んで帰るのを見上げていたら、ぐんっ、とリードを引っ張られた。

 犬が千切れるくらい尻尾を振っていて、その向こうで先輩が小さく手を振っていた。

「いつもありがとう」

 先輩の立っていた所までたどり着き、リードを軽く掲げてまた歩き出す。そうすると先輩はくるりと体の向きを変え僕の隣に並んだ。

「今帰って来たのに、また戻るんですか?」

「ん、一緒に行く」

 僕は肩を竦めて犬のリードを渡し、先輩から重い革の鞄とバッグを受け取った。さっきまで振り返りもしないで歩いていた犬が、何度も先輩の方を向いて尻尾を振るので、僕は現金な奴だなと思った。


 その冬の少し前に犬が死んで、僕は百円玉を握ったままの手をポケットにれて、夜道をひとり自動販売機まで歩く。

 ふと後ろから足音が近づいてきて、僕の隣に追いついた先輩が肩を上下し息を整えている。

「勉強ばかりで運動不足」

「お疲れ様です」

 半纏に、普段はしてない眼鏡姿の先輩は苦笑いだった。

「眠気覚ましにコーヒー飲みたくて」

「受験勉強。大学、県外でしたっけ?」

「うん、やりたい事あって」

 僕は県外か、と口の中で呟いた。受験がうまくいけば春から先輩は県外に行ってしまう。先輩の犬も先輩もいなくなって、とうとうこの道を歩くのは僕だけとなる。

 先輩が通う大学のある街にも同じ自動販売機があるんだろうか。そんな事を考えていたら先輩が「敬語」とぽつっとこぼした。

「前みたいに普通に話してもいいよ?」

「先輩は、先輩ですから」

 それでも僕が敬語で返すと先輩は、むーっと可愛い唸り声を上げた。こんなやりとりもあと少しなのかと思いながら、リードを持たない空の手をポケットの中で握り直す。その手の肘の辺りを先輩が触れ、僕が立ち止まると「ねえ」と小さく言った。

「手、ちょうだい。あの子がいなくてなんだか手が寂しくて」

「そうですね」

 ポケットから手を出し、先輩の顔を見ないようにして差し出した。先輩の小さな手が僕の手に触れるとちょっとひんやりとする。

「手、あったかいね」

「ポケットに入れてましたから」

「うん、お休みとか帰ってくるからね」

「勉強、忙しいでしょう」

「でも、帰ってくるからね」

 うん、と小さく返事して、あとは黙って手を繋ぎ自動販売機まで歩く。

 コーヒーが飲みたいと言った先輩はお金も持って来ておらず、仕方なしに僕たちは一本の缶コーヒーを分け合う事にした。

 先輩が自動販売機に硬貨を入れボタンを押す間、僕は目を瞑って待っていた。

 少し肌寒い冬の前の夜は静かで、乾いた空気が自動販売機が立てる小さなブーン、と言う音を僕の耳に運ぶ。

 がこん、とコーヒーが落ちてくる音を合図に僕は目を開き、「お待たせ」と振り返った先輩に出来る限りの笑顔を向けた。


 あの自動販売機やジュースのCMがローカルだった事を知ったのは、大学進学のために別の県に移り住んでからだった。社会人になって最初の夏休みの帰省、僕は懐かしい自動販売機にふらっと会いに行った。

 記憶よりも小さく見えるそれはもう電源も入っておらず、錆びて、赤色と黄色だった塗装は夕焼色に褪せていた。

 そんな自動販売機の脇に、僕たちがよく座ったブロックはそのまま雑草の陰に残っていて、そこで近頃もう見なくなったプルトップを見つけた。

 着いた土を落とし、僕はリズミカルに口遊む。

 ──夢中、夢中よ。

 そうして、爪を折り、指を通す輪の部分だけになったプルトップを少しだけ翳して眺め、僕はもう動かなくなった自動販売機の投入口にそれを落とした。

〈了〉

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