日記:万華鏡の世界と境界線
日記……日記を書くぞ……とりあえず時間がなかったので後で書こうと思っていた感想を書こう……
シャニマスのライブ(明日!?)が迫っているので、とりあえず少しは触れておかなければと思って、とりあえずはイベントシナリオを読もうとしたのだけれど、それよりも限定ガシャの期限が迫っていたので、石(ガシャを回すためのアイテムのことです)を集めるついでにTrue Endの回収をしていた。「回収」って言葉はゲーム的な意味合いが大きいので少し冷たい気がする。アイドルという仕事に向き合う彼女たちの姿を「回収」という言葉で片付けてしまうことが許されてよいのだろうか? そんな自問を繰り返しつつ、結局は石が欲しいので進めていた。イベントシナリオ3本と摩美々S.T.E.P.は明日までに読めるのか? S.T.E.P.はいまだに一度も触れていないので仕組みがよくわかっていない。
いくつかTrue Endを読んでいく中で印象的だったのが【kaleidoscope-pinball】だった。単に三峰結華さんが好きというのもあるのだけれど……
その中の一節に、立ち寄ったお店でバイト募集の掲示を見た三峰が、「アイドルにならず、バイトしながら大学に通っている自分」を想像する、という一幕がある。
いまは、違う未来に立っている。それはアイドルにスカウトされたという幸運からくるもので、しかしその幸運が当たり前になっている自分がいる。世界とは、さまざまな要素によって万華鏡のように姿を変える。いまの当たり前な光景が、ほんの少し角度を傾けたら、まったく別の形になっていたのかもしれない。
またある一節では、「プロデューサーとすれ違いを感じた三峰が、プロデューサーが自分から離れていってしまうことを想像する」という場面がある。
いまのプロデューサーが自分に声を掛けてくれたのは、たまたま雨宿りで一緒になったからに過ぎない。そんな偶然のうえに続いている道が、他の要素によって形を変えてしまうことがないはずもない。
自分の道は、自分で選べる。でも他人の道は? 誰かが違う道を歩もうとしているとき、それを引き留める理由はどこにあるのだろう? きっとそれはエゴでしかない。自分がそうしたいから、他人を巻き込む。境界を越えて踏み込もうとする。
境界線を引くのは、相手を大切にしたいからでもある。自分にも踏み込まれたくない領域があるように、相手を傷つけたくないから、そして傷つけたことによって自分が傷つきたくないから、境界を守る。しかし時には、境界を越えなければならないときがある。例えば、相手が過剰に他者を尊重した境界線を引いて傷ついた自分を隠そうとしているとき(アンティーカのファン感謝祭シナリオのような)。あるいは、境界線を越えなければ後悔すると感じたときだ。そのときは傷つける責任を負ってでも、踏み込まなければならない。自分の我を通すために。
境界線を越えるべきだとは思わない。他人の心を完全に理解することはかなわない。自分が不用意に踏み込んだ領域が、相手にとっては決して触れてほしくない場所であるかもしれない。三峰はきっとそのことを認識したうえで、それでも踏み込むことを選んだ。距離を置いているプロデューサーに対して、その真意を図ろうとした。結局、心配は杞憂に終わったわけだけれど、それでも境界線を越えないように振る舞ってきた三峰が、プロデューサーに対して踏み込もうとしたのは、関係性の積み重ねがもたらした変化であるように思う。
……そういうことを勝手に推察して書いていると、自分がどうしようもなく他人の領域を無断で踏み荒らす最悪な人間に思えてならない。だから感想を書くのは難しいと感じるのだけれど、自分はそういうエゴを貫くことを選んだのだと、十字架を背負って生きていくことにする。
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