日記:ない音が聞こえる

すごい。擬音の力が情景を想起させる役にどれだけ立っているかがわかる。羅生門がスタイリッシュ平安バトルになっている。言葉の意味をシーンへと解凍するための時間が文字媒体には必要なのだけれど、擬音があることで直感的にイメージを湧き立たせ、そのあとの意味の咀嚼を滑らかにしている。

小説にこのような擬音の手法を用いることができればかなり凄いのではないかとは思う。実際、ライトノベルだったりすると戦闘描写などに擬音が持ち込まれていて何が起こったのかとてもわかりやすかったりする。たとえば、

ドゴオオオオオオオオォォォォン!!!!

と、そういう描写が挟まれば、何かわからないが爆発が起きたのだということが直感的に理解できる。これが例えば「そのとき、怒号のような爆発音が響いた。」みたいな地の文で説明するとすれば、一瞬ではあるもののその言葉の意味を情景に変換するプロセスが読者の頭の中で発生する。擬音で伝えてしまえば一瞬だし、突然の爆発という衝撃を瞬間的に与えるのにも役立つ。

しかしどうしてもオノマトペを文字で表してしまうことによるある種のチープさが入り込んでしまうという事実は否めない。上の擬音も、善かれ悪しかれ、どうしても軽い印象を与えてしまう。擬音が使える文章と使えない文章がある。すべての小説が擬音の力を借りることができる訳ではないのだ。

漫画の擬音も、それだけに注目して冷静に読んでみると、なんだか不思議な印象がある。しかし描き文字として背景の一部になることで、「そういうもの」として読む姿勢が読者の中にできあがっている。

漫画と小説を比較すると、漫画の視覚的な情報量の優位がまず考えられるけれど、それに加えて擬音を盛り込みやすいという点で、音の情報量でも漫画の方が多いことになる。勿論、擬音のない漫画や、擬音を多用する小説もあるのだけれど、多くはそうなっているように思う。

漫画には音があり、小説には音がない。言葉にはただ意味だけがあり、そこから音や画を想起する必要がある。その意味の広がりが広大な世界観を表現することもあるし、情景を想像させるのに時間が掛かってしまうこともある。


『ルックバック』を読み返していたら、擬音が殆ど使われていないことに気がついた。その擬音も、画ではどうしたって表現することのできない、見えないところでなっている音を表現することにのみ用いられていて、イメージを補佐するための擬音というものは存在していない。たしかに、静かな話運びではあると思ってはいたのだけれど、純然たる画の力と間の取り方で物語をつなぐ技巧に改めて感嘆してしまう。戦闘描写のない漫画がえてしてそういうものなのかもしれないけれど、しかし台詞も音もない画の連続で意味を伝えてくる表現力の高さは、今更言うまでもないけれど凄まじい。言葉で多くを語らないが故に、自分のような人間にとっては読めば読むほど発見があり、その度に心を撃ち抜かれている。



ひゃあああ……すごい……ゆっくり聞いていこう……

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