日記:祭りの外でもいいじゃん

先日の日記で紙の本を買いに行こうという決意を新たにしたにも関わらず、その舌の根の乾かぬ内に紙の本を整理していこうと思い立つのだから自分の意思の信用のなさといったらない。

特に理由もなく本屋に出かけてもいいのだけれど(本屋が好きなので)、しかし本を買って帰れないのであれば足が遠のく自分もいる。気になった本をその場で検索してみて、電子書籍が出ていないようであれば購入するとかではどうだろう。しかし自分が手に取るような本は大抵電子版が出ている。紙の本しか出ていないものを見つけることができるだろうか……?こうなるとなんかもう違うゲームになっている気がするが、これはこれで自分が普段触れない本を手に取ることができそうなので面白いかもしれない。


電子版が出ていない作家の一人にあずまきよひこ先生がいる。「よつばと!」や「あずまんが大王」の作者の方である。

どうやら準備中とのことらしい。

メジャーな本であればあるほど、装丁が凝っていたりして紙で買う価値はより高まる。例えば漫画のカバーの手触りはジャンプコミックスのようにツルツルとしたものと、「よつばと!」のようにさらさらとマットな質感のものがある。どちらが良いという訳ではないけれど、後者の手触りはなんだかそれだけで高級感を覚える。カバーを撫でているだけで楽しい。電子版が出ていない理由はわからないけれど、紙の本で読みたいという気持ちもわかる。とてもわかる。


少し話は変わるけれど、最近以下の記事が話題になっていた。

自分は「あずまんが大王」を読んだことがなかったため、話題の中に入れず歯痒い思いをしていた。いつもなら電子版ですぐに買ってしまったりすることができるのだけれど、今回は電子が出ていなかったのでその手段が取れなかった。懐かしい話題が再燃する、いわゆる「インターネット老人会」が盛り上がっているのを見ると、自分もその輪に入りたくなる。しかしそういうところで取り上げられるようなメインストリームのサブカルを自分はそんなに通ってきていないので、いつも蚊帳の外から眺めている。

以前、オモコロチャンネルで『幽☆遊☆白書』が取り上げられたときも、自分はその熱を実感をもって浴びることができなかった。なので電子書籍で購入し、全巻読んでから動画を見た。とても楽しかったのだけれど、同時に動画に出ている方たちと同じような盛り上がり方をできない自分もいて、それが少し寂しかったりもした。


思えば昔からそうだったと思う。2chの祭りはまとめサイトで後から眺めていたし、ニコニコ動画で何かが盛り上がっているときもコメントせず見ているだけだった。祭りに参加するということをせず、常に一歩引いた場所でその熱狂を眺めていた。自分はいつも当事者ではなく傍観者だった。そういう立場を選んできた。だから、昔懐かしの話で盛り上がる際にも、いまいち乗り切れないことが多いのだと思う。

そういう後悔のような思いがあって、最近は流行りの作品にできるだけ飛びついてその熱を感じようとしている。リアルタイムの熱狂はそのときにしか味わえないことが多い。勿論あとから作品に触れることでも楽しむことはできるのだけれど、例えば毎週ジャンプが更新されるたびにその展開に一喜一憂狂喜乱舞阿鼻叫喚する瞬発的な感情の跳ね上がりを共有するのは、やはり同じ時間の中に身を投じていくことでしか得られない悦楽なのかなと思う。

それはそれで楽しいのだけれど、しかしどうしても作品への熱の入れ方が自分には欠けているような気がして、そこに幾許かの劣等感を抱いてしまう。自分よりその作品を好きな人がいて、その人が表現する感情の振れ幅を、自分が同じように抱くことができなかったりすると、自分の作品への愛はそのくらいのものだったのかなと思ってしまう。そもそも自分の抱いた感想が他者の存在によって影響されてしまうことをおかしいというべきなのかもしれないが、しかしそうやって他人の影響を受けてしまうのが自分なのだ。自分というものがない。すぐに流される。どうしても他人の紡ぐ言葉が正しく思える。

しかしまあ、普通のことを言うようだけれど、誰かがそれを楽しいと言っていたとして、それを自分も受け入れる必要なんて全くない。他のみんなが祭りを囲んでいても、そこに参加しなくたってよい。自分の中の熱を大事に育てていくことの方が重要だと思う。その火種に外部からの熱を注いだ方が効果的だと思えるのなら、そのとき一緒に楽しめばよい。別に祭りの外でもいいじゃん。そういう向き合い方も大事にしていきたい。

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