日記:名もなきうた
とりあえず1週間が終わった。明日と明後日はシャニマスのライブなので心が踊っている。準備はまるでしていない。明日起きてからなんとかしよう……。
シャニマスは4月が周年記念で企画も多く、毎年忙しない。今年もたくさんの企画や配信があって、あまりにもたくさんだったのと自分があまり余裕がなかったので全然追えていない。とりあえず昨日の懇談会はどこかのタイミングで見ておきたい。あと今日やっていたらしいCafé Takayamaも見たい……。
今日は急いでシャニマスのイベントシナリオ「YOUR/MY Love letter」を読んでいた。別にライブの予習としてイベントシナリオを読んでいる必要性はあまりないのだが、気持ちの問題。シャニマスと向き合うときに、できるだけ語られてきた言葉に耳を傾けていたくて、だから本当はシナリオにとどまらず生配信もラジオも全部追いかけたうえでライブに臨みたいものなのだけれどそれも難しかった。シャニマスを追いかけているだけの自分でこの状態なのだから、アイドルマスターシリーズの複数のブランドを同時に追っている人はどれだけ時間の使い方が上手いのだろうか。自分は自分の生活を送るので精一杯である。
奇しくも「YOUR/MY Love letter」はそんな話だったように思う。名もなき人たちの、名もなき生活。自分の代わりはいるし、ただ日々は過ぎていくし、輝く舞台に立つ側にはなれなかったし、果たすべき役割を果たせているのかわからない。声は届くかわからないし、誰かの思いをすべて覚えていることができないし、支えられているからこそ1人で立ち上がらなくてはならない。生活とはそういうやりきれなさが折り重なってできている。だからこれは「すべての名もなき人たち」に向けられた祈りであり讃歌である。
自分が嫌いだ。与えられた名から、何もかも。そうして自分を否定すればするほど、名前のない存在になればなるほど、ここにいる理由もわからなくなっていく。この思考する身体が、しかし社会からすれば交換可能なパーツなのだとしたら、それが自分である意味はない。名を失うとは、すなわち存在理由を失うということだ。
でも人ははじめから名を持っていたわけではない。この身体に神様からラベルを貼られて世界に生まれ落ちるわけではない。それは誰かによって与えられた名前で、だから酷く不確かなものだ。望んでその名前を受け取ったわけでもない。それはただ誰かの祈りによって与えられたものにすぎない。それを剥がしてしまえば、すべての人は「名もなき人」でしかない。
名前を与えるのは誰か。最初はそれを与えられるのかもしれない。生きる理由も、それを与えた人がそれを保証してくれるのかもしれない。愛の中で、名前を与えられて生きる。存在そのものが、誰かにとっての生きる理由になっているのなら、ただ自分はそれに奉じていればよい。
だがいつしか人は1人で歩いていく。誰かに与えられた名前のもとでの人生ではない、自分のための道を。ただそれはとても困難な道のりで、誰もが自分にふさわしい名前を見つけられるわけではない。名前とは誰かに呼ばれるものであるから、相手の需要なしでは成立し得ない。それと自分の欲求に折り合いをつけるのはとても難しいことだ。だから自分だけの名前が与えられるということは、この社会ではほとんどない。交換可能な、役割としての名前を負う。複数形としての名前。そこに自分はない。だから、名前を得たような気がしているのに、名もなき人になっている。
だから名前を呼んでくれる誰かが必要になる。それは自分でもいいし、他の誰かでもいい。この世の誰もが名もなき人で、生きることとはすなわち、名前を見つけるための道行であるのかもしれない。
あなたの話を聞かせてほしい。あなたの名前を呼ぶために。いつか自分が名前を呼ばれたように、きっと自分も誰かの名前を呼びたいのだ。なぜか? 名前を呼ぶのは、それが自分に必要だからだ。
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