俳優


先日スターバックスに行った時のこと。
珈琲とドーナツを注文し、勘定を済ませるべく携帯電話を握りしめていたところ、店員の若い男に声をかけられた。

「すみません、もし違ったら申し訳ないのですが、もしかして俳優さんですか」


突然のことだったので私は、
「えっ」
と漏らして、一瞬固まってしまった。
そして少し遅れて彼の言葉が、言語としての意味を成し、つるつると私の頭の中へと流れ込んできた。
状況を理解した私は、すぐさま「違う」と答えた。
それで彼は納得して終わるだろうと思ったが、予想に反して食い下がった。

彼は不審そうな目つきで
「本当ですか」
と言った。
「ふむ。悪いね」
と私は言った。
「とてもお洒落だったので、俳優さんかと思いました。俳優さんだったら皆に自慢しようと思ったんです」
彼はそう言って「へへっ」とはにかんだ。

「私じゃ自慢できないね」
と言うと彼は、
「そんなことございません。今日とてもお洒落なお客様を接客したって自慢できます」
彼はそう言って私の携帯電話のQRコードを機械で読み取って、満面の笑みでレシートを渡した。

「ありがとうございました」
彼の吐いたその言葉の響きは、私にかける言葉としては、あまりに澄み渡り過ぎていた。



そのやり取りの中で、終始私はもやもやとしていたが、席についてドーナツを頬張って珈琲を流し込んでいるうちに、その理由が次第に明らかになってきた。


まず初めに彼が口にした、「もし違っていたら申し訳ないのですが」という文言であるが、その切り口で人に話しかける場合、その後にはきっと固有名詞がくるべきである。
そしてその固有名詞とは、勿論人物名である。

その切り口で話しかける経緯としては、「おや、あの人は俳優の●●さんに似ている。でもまさかあの人がこんなところにいるわけないよなあ。うーむ、でもやっぱり●●さんにしか見えないなあ。ええい、一か八か声をかけてみよう」
という葛藤が心の中で繰り広げられる必要がある。

つまり、『おおよそ、その人が特定の人物であるように思われるが、絶対的な確信が持てない場合』に用いられる表現なのである。
このように定義してみると、彼の初手がいかに不思議な響きを孕んでいるかということがわかるだろう。

勿論この定義にも例外はあり、特定の人物ではなく、職業を指して成立する場合もある。
例えば私が着物を着ており、隣に付き人のような人間を連れ添っていた場合に、この人は落語家かもしれないと思うことはあり得る。
サラリーマンのスーツとは、明らかに違った風合いのスーツにサングラスなんてかけていようものなら、ヤクザかもしれないと思うことも大いにある。
体つきと髪型から格闘家だと思うことだってあり得る。

しかしながら俳優というものには、落語家やヤクザ、格闘家などのように、一般的に決まった俳優像というものがあるわけではない。
そのような状況の中で、彼がいかにして私を俳優と定義づけたのか、それこそが大きな謎なのである。


いやいや、彼はちゃんと定義づけしていたじゃありませんか。自分の都合のいいように読者を扇動していくなんて、まるでネットニュースの記者みたいなやり口だ。
と思われた方がいらっしゃるかもしれない。


確かに彼は、私を俳優と認識した理由として、「あまりにお洒落であったから」と述べている。
だが先程も述べたように、俳優には一般的な俳優像はない。
お洒落な俳優もいれば、日常の身なりは何も気を使わないような人もいる。
「俳優=お洒落」という構図は、かなり恣意的である。
つまりこの言葉から考えるに、彼が俳優というものに対して誤ったイメージを抱いているか、その場で言葉を取り繕ったかのどちらかである。
そして私としては、彼が言葉を取り繕ったものであると確信している。

なぜならば、私はお洒落ではないからである。


お洒落というものもまた曖昧で、人によって嗜好も違えば追求度も大きく異なる。
だがこの場合は彼が私を「俳優」と定義したことによって、お洒落の芸能的尺度というものを適用することができる。
常に被写体となりうる芸能人は、一般的尺度のお洒落くらいでは画面映えすることが難しく、そこに確固たるアイデンティティや、指針をら持ち合わせていなければ、絵力が大いに貧弱なものとなる。
そういったことから、メディアでお洒落と謳われる芸能人は、スニーカーを偏愛している者か、古着を偏愛している者か、ハイブランドを嫌味なく着こなしている人間に限定されている。
彼が私を「俳優」と見立てている以上、私に対するお洒落の尺度も、この芸能的尺度が適用されるわけだが、残念ながら私はこのうちのどれにも当てはまっていない。
つまり私の服装について芸能的尺度によって推し量るならば、私は並かそれ以下ということになる。
運良く「小洒落ている」くらいには見えていたとしても、その程度では名もなき人間を『お洒落だから俳優だ』と見立てる根拠にはなり得ない。
それが彼が言葉を取り繕ったとする根拠である。

つまりお洒落云々という文言には、彼の意思は宿っておらず、即ち彼は本当に理由もなく私を俳優であると考えたということになる。
「表に立つ仕事」と曖昧にすることもできたし、芸人でもバンドマンでもなく、モデルでもなく、アイドルでもなく、彼は俳優にベットしたのである。
不思議な男だと思って、私は店を後にした。


帰り道、私は彼の言う通り俳優だと名乗っておけばよかったと思った。
そうすれば彼の顔も立ったし、自慢の種にもなっただろうし、珈琲のサイズもワンサイズ大きくしてくれていたかもしれない。
そう考えた後、自分はなんてケチ臭い人間なのだろうと嫌悪の念が湧いてきた。

本心ではないにしても、
「私じゃ自慢できないね」
に対して、 
「今日とてもお洒落なお客様を接客したって自慢できます」
というハイパーポジティブアンサーは、私も是非に見習いたいと思ったのであった。

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