目抜き
所用によって富山へ行った折、現地で海鮮丼が振舞われていたので、私もひとつお呼ばれした。
海のすぐ傍にあり、雲ひとつ見当たらないような青空の下、そんななか私の元に運ばれてきたものは、日本海で獲れた鮮魚が散りばめられた海鮮丼で、それは見ているだけで幸福といえる代物であった。
無論、見ているだけでは勿体無いので、私はひと口ひと口、しっかりと噛み締めて胃袋へと流し込んだ。
それは非常に美味であった。
刺身に酢飯、醤油までもが完璧に調和していた。
魚には臭みもなく、酢飯の温度も丁度良い。
そしてそれらを、ほんのりと甘みのある醤油が上手くまとめているといった具合で、それは最早「新たな生態系」といっても過言ではない程に、全ての均整が保たれていたのである。
しかしながら、私の心の中には、海鮮丼によって供給された幸福と同時に、大きな疑念が生まれていた。
そして噛めば噛む程、その疑念は大きく膨れ上がっていったのである。
では、私の抱いた疑念とは何か。
その時私の心を締め付けた想いとは何なのか。
初めは違和感に過ぎなかったその感触は、ひと口毎に形を成してゆき、やがて私の脳裏にその姿を現した。
それは海鮮丼が長きにわたって孕み続け、我々を欺気続けてきた、虚偽の歴史なのであった。
海鮮丼の偽りを暴く前に、まず一般的な丼を例にとってみたいと思う。
基本的に具材とツユ、それをとじる卵を含めた「上物」に味の主体があり、だからこそ主体側に使われる具材が、丼の名を背負うこととなる。
カツ丼、親子丼、玉子丼といったものである。
故にご飯はそれら「上物」を引き立てる役割を一身に引き受け、縁の下の力持ちとして、その役割を担うこととなる。
これが一般的な丼の仕組みである。
では海鮮丼の場合はどうであろうか。
刺身は確かに、刺身としては美味しい。
質の良い魚には食感以上に、甘みを感じられたり味に立体感がある。
だがそれはあくまで刺身としての話である。
いくら刺身として美味くても、丼となると馬力に欠けてしまう。
醤油の力を借りたとしても、白米をその礎とする程の度量がない。
だからこそ、ご飯は酢飯となったのである。
そこで初めて、ご飯と上物との間に均衡が生まれるのである。
刺身だけでは抱えきれなかった問題を、ご飯の側からの働きかけで見事に解決したのである。
しかし、ここに大きな矛盾が生じていることを、海鮮丼はこれまで巧妙に隠し続けてきた。
その矛盾というのは、つまり、味の主体が既に刺身側から酢飯側に移っているというところにある。
これまでは引き立てる側のお米が、酢飯になったことで引き立てられる側に移行したという事実に、海鮮丼は蓋をしてしまったのである。
寿司の場合を取ってみてもわかるように、寿司の主体は魚ではなく、シャリの方にある。
魚を美味しく食べたいのであれば、刺身で食えばよい。
あえて酢飯と一緒に食べるということは、本質的に寿司とは、如何にして酢飯を美味く食べるかということなのである。
魚は酢飯を引き立てるエッセンスに過ぎないのである。
勿論、魚が重要な役割を担っていることに間違いは無いのだが、その証拠に「寿司」の語源は、「酸っぱい」を意味する「酸し」からきている。
つまり、酢飯側にアドバンテージがあるということを、その名が物語っているのである。
丼のネーミングライツに関しては元来、味の主体側がその権利を有することが慣例となっており、大抵の場合、それは上物側が担うことが当たり前のようになっている。
海鮮丼はその仕組みを、酢飯への移行過程の中で巧みに撹乱し、遂には覇権を握ることとなったのである。
そう、いつしか酢飯は、不当に虐げられる側となっていたのである。
それは最早、当事者である酢飯も気が付いていないことなのかもしれない。
本来ならば酢飯とは、その作業工程などからも、もっと味の品評の対象となってもよいはずなのであるが、人々が目を向けるのは、魚の方ばかりで、誰も彼も、酢飯をただの風景のように食べている。
私の抱いた疑念とは、この酢飯に対する不当な扱いについてなのである。
海鮮丼の美味さのウェイトは、魚の良し悪しよりも、酢飯の方にある、これこそが海鮮丼が隠し続けてきた真実なのである。
海鮮丼に対して私が述べたいことは、いま一度、「海鮮丼」という名を返上し、丼から桶の中に戻り「ちらし寿司」として、改めて酢飯との共存共栄の道を模索して欲しいということである。
「すめし」から「め」を抜くと、「すし」となる。
このことからも、寿司が如何に酢飯を尊重しているのかということが窺い知れる。
もしも、ちらし寿司が桶から再び丼に戻る時、酢飯を尊重するあまりに、「寿司丼」という名を冠するのであれば、それはそれで芸がないと思われる。
そこで私は、その時にはその一派に対して、新たなる酢飯と魚の共栄の証として、「目抜き丼」という名を進呈したいと思う。
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