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ぶどう園のたとえと、キリストについての決めつけ【ルカ20:9-19】【やさしい聖書のお話】

ぶどう園のたとえ

ルカによる福音書から、イエス様のたとえ話を読んでいます。どんな話かというと。。。

ある人がぶどう園を作った。
ぶどう園の主人は、ぶどう園を農家に貸して、遠くへ出張に行った。
ぶどうがみのる季節になったので、主人はしもべをぶどう園に行かせて、農家から収穫を納めさせようとした。すると農家は、主人のしもべを暴力で追い返した。

主人はわけがわからなかっただろうね。ぶどう園を農家にあげたわけじゃなくて、農家にお給料を払って、ぶどう園で働いてもらってたんだ。だから収穫は主人のものだ。それを受取ろうとしたのに。

主人は別のしもべをぶどう園に行かせた。でも農家はこのしもべも暴力で追い返した。
別なしもべを送っても同じだった。

そこで主人は、自分の息子を行かせることにした。
ぶどう園で働いている人たちは、主人の息子が生まれる前からこの子を知ってたんだ。主人はこわいけど、主人の息子は好きだから、早く来ないかなって思ってたんだ。

ところが実際に主人の息子が来た時、農家はこんな悪だくみを考えた。
「あの息子を殺してしまおう。あいつは主人の独り子で、ほかにこのぶどう園を受け継ぐ息子はいない。跡取りがいなければ、働いてた俺たちに受け継ぐ権利があるはずだ」
そして息子をつかまえ、ぶどう園の外に連れて行って、そこで殺してしまった。

すごいたとえ話だよね。すさまじいというか。イエス様はここまで語ってから、人々にこう言ったんだ。
「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。ぶどう園に帰って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいないとは思わないか?」
人々はイエス様にこう答えた。
「そんなことがあってはなりません」

いったいこれはどういうたとえばなしだろう。

たとえ話の意味

「 主人」というのが神様だということはわかるよね。
そうすると、神様である主人が何人もぶどう園につかわした「しもべ」というのは、預言者たちのことだ。
そして最後に送った主人の一人息子というのは、ぶどう園の人たちが待っていたはずのメシア、救い主なんだ。

そうするとこの農家の人たちというのは、イスラエルの人たちだね。旧約聖書でもイスラエルをぶどう園にたとえている箇所があるんだ(イザヤ書16:10)
でもこの農家の人たち(イスラエル)は、主人の独り子であるメシアを、ぶどう園の外に連れ出してそこで殺してしまうというんだ。

イエス様は別の時にはこう言っている。マタイによる福音書が伝えている、イエス様がロバにのってエルサレムに着いたときの言葉なのだけど。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す者よ。めんどりが雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」

マタイによる福音書23:37(新共同訳)

こういうふうにも言ってる 

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。
こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。
先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。

マタイによる福音書23:29-32(新共同訳)

強烈ですね。
預言者たちを殺してきたのはあなたたちの先祖だと、あなたたち自身で言っちゃってるじゃないか、先祖の悪事の総仕上げとして、主人の独り子である私を殺したらどうだ、そのつもりなのだろ?というのです。

そして実際にこのあと、救い主イエス様を彼らは十字架で殺すのです。

なぜ神の子メシアを

どうしてイスラエルは、ユダヤ人は、自分たちが待っていた救い主を信じられなかったんだろうか。殺してしまったんだろうか。

それはね、「そうすることが正しいんだ」って心から思ったからなんだ。
「私たちは神様を愛している。私たちは救い主を待っている。でもあのイエスというやつは、私たちが待っていた救い主ではない。私たちが愛する神様を父なんて呼んで、私たちの神様を侮辱している」と思ってしまったんだ。

じゃあなぜそう思ってしまったのか?ぼくたちが旧約聖書を読むと、イエス様は旧約聖書で預言されていたとおりの救い主だってわかるのに。

でもユダヤの人たちは、旧約聖書の預言の中から「来たるべき救い主はこういうお方」というのを決めつけて、預言の中でも自分たちの考えにあわないところは無視していたんだ。

これは、ぼくたちキリスト教でもやりがちなところなんだ。
たとえば「イエス様は平和の王様」ということは読むけれど、イエス様が来ることで戦いが起こるということは無視したりとか。
イエス様が「剣を取るものは剣で滅びる」と言っていることは大事にするけど、イエス様が「持ち物を売ってでも剣を買いなさい」と言ったことは無視したりとか。

神様がイザヤによって「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」と告げていたのはイエス様のことだって、マタイによる福音書に書いてある(12:20)。
でも最近のはやりだと「勝利」というのはやめましょうって。イエス様は草のように傷ついた人や消えそうなランプのように元気のない人を助けてくれるというのは大事だけど、勝利というのは戦いを連想させるからって。

イエス様は、イエス様のために命を捨てる者が命を得るとか、友達のために命を捨てるより大きな愛はないって教えた。
でも「そうした言葉は、クリスチャンを戦争に協力させるために使われた悪い言葉だ。イエス様の悪い言葉は無視しましょう」というのが、はやりかけている、というか、はやらせようとするクリスチャンや教会があるように感じています。

でも「イエス様の悪い言葉」って何?
神の言葉に「悪い言葉」なんてあるの?

聖書には、こっちに書いてあることと逆に思えることがこっちには書いてある、っていうことは、たくさんあるんだ(それで「キリスト教の聖書は矛盾ばかりだ」なんて批判する人もいるくらい)。
そういうところについて、自分の考えにあうほうだけを読むというのは正しいだろうか。聖書を「神の言葉」と信じるなら、自分の考えにあわないほうを軽んじるというのは正しいとはいえないよね。両方をよく読んで、「その両方から神様は何を言いたいのか」を考えなきゃいけない。「私が思う『イエス様はこんなお方』にあうところだけ」じゃダメなんだ。

ユダヤの宗教家たちは「来たるべきメシアは、こう!」という決めつけが強すぎたから、イエス様が来た時に「救い主はこうじゃない!」てなってしまった。それで、「ぶどう園のたとえ」で農家が主人の独り子を殺してしまったように、神の独り子イエス様を十字架で殺してしまった。
救い主の訪れを待っていたのに、自分たちが待っていたはずの救い主を自分たちで殺してしまうなんて、こんな悲しいことはない。

ぼくたちは同じ失敗をしちゃだめだ。
自分が考えた「イエス様は、こう!」にあうところだけ読んでそれ以外は無視していたら、ふたたびイエス様が来た時に「これは待っていた救い主ではない」てなるから。2000年前にイエス様がわからなかったユダヤ人のようになってしまうから。

じゃあどうしたらいい?
答えは聖書全体だ。
聖書の中の「私が考える神様やイエス様にあってるところ」だけじゃなくて、聖書全体が答なんだ。

べレアの町のユダヤ人は、パウロからイエス様の話を聞いたとき、そのとおりかどうか聖書を確かめた。
ぼくたちも聖書をよく読んでおこう。聖書全体からイエス様のこと、神様のことを確かめられるようになろう。でないとイエス様が約束通りにもう一度来たとき、ぼくたちは「ぶどう園のたとえ」の農家たちと同じことをしてしまうことになるから。

動画版のご案内

このnoteの内容は、2023年3月19日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。


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