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アブラハムのロト休出作戦

メソポタミアの4王の連合軍が、死海付近の5王の同盟軍を破り、アブラム(アブラハム)の甥ロトも捕虜に。アブラムが手勢を率いて奪還作戦を勝利した聖書の記事についての考察。

1. あらまし

創世記14章1~16節にあるアブラムのロト救出について取り上げます。

アブラム一族は、イサクの代には地元の王アビメレクが恐れるほどの豪族となるわけですが、この時点ではそれほどたいした勢力でなかったことが、アビメレクに「私の領土のどこにでも住んでよい」と言われたことからも推測できます。

ではアブラムのロト休出作戦はどのような戦いだったのか。

概略としては、エラムの王ケドルラオメルに支配されていたソドムの王ベラをはじめ5人の王が、死海で同盟を結んで、叛旗を翻しました。
これに対しケドルラオメルは、近隣の三王を味方に討伐軍を起こします。

以下、ケドルラオメルとその味方の連合を東軍、ソドム王と近隣の同盟を死海同盟とします。なお、固有名詞は新共同訳を使用します。

死海同盟は東軍に敗れ、ソドムに住んでいたロトも捕虜となりましたが、アブラムが手勢を率いて東軍を打ち破り、ロトとその財産を奪還したのみならずすべての捕虜を解放したという戦いです。

2. 討伐軍の規模

ケドルラオメル率いる東軍の規模は聖書に記録はありません。しかし次の手がかりから、数字はわからないながらも大規模だったとは考えられるでしょう。
・ 四王の連合だった
・ かなりの長征だった
・ 死海同盟を瞬時に壊走させた

(1) 四王の連合だった

エラム王ケドルラオメルは単独で討伐に出るのではなく、シンアル軍、エラサル軍、ゴイム軍を味方としました。

ケドルラオメルは、14年前に単独で死海付近の五王を支配下に置いたほどですから、死海同盟とは力の差があったと考えられます。ただ今回の遠征では、おそらく急な反乱ということで、単独で討伐に出るのが難しかったのではないでしょうか。
エラム防衛を考えれば全兵力を割り当てるわけにはいきません。しかし近隣の王と連合で討伐軍を起こせば、エラムをガラ空きにはできないまでも多くの兵力を討伐に向けられる上、近隣の王の兵力も加わって規模が拡大されます。

別の見方として、死海同盟からの捕虜や分捕り品、さらに隊商路「王の道」制圧後の利益を分配するのを条件に、ケドルラオメルはアムラフェルら近隣の王を味方にした可能性も考えられるのではないでしょうか。

王といっても、都市の王なのか、ある程度の領域の王なのかでずいぶん違うと思います。しかし、4人の王が後顧の憂いなく兵を出したとすれば、アブラムの318人では少なくとも正面からはどうにもならない規模だったのではないかと考えます。

(2) 当時としてはかなりの長征だったと思われる

聖書の記述によると、ケドルラオメル率いる東軍は、まっすぐ死海同盟を目指しはいません。
アシュテロト・カルナイムでレファイム人を破ったのを皮切りに、隊商路「王の道」を制圧しつつ、この時点では死海同盟を無視するかのようにアカバ湾に近いエル・パランまで南下、そこから北へ転進して「アマレク人の全領土」を制圧した上にアモリ人も撃ち、それからようやく死海同盟に矛先を向けたのです。

「アマレクの全領土」の規模にもよります。隊商路沿いにはある程度栄えた町々があったかもしれませんがそれも大きくはなかったでしょう。だとしても、これらの連戦をすべて勝利する戦力。

そして気になるのが兵站の問題です。
水が尽きれば死という荒れ野の行軍で、旧日本軍のように「糧食は現地調達」という考え方はできないでしょう。しかも現代の軍隊のような輸送手段を持たない時代のこと、家畜を使ったにしろこの距離を遠征するとなれば、兵糧を運ぶのも相当の労働力が必要だったと思われます。

そう考えると、反乱軍鎮圧のためというのでは、コストもリスクも大きすぎるように思います。
あるいはこの遠征の真の目的は、紅海・エジプト・南アラビアを結ぶ隊商路「王の道」の制圧・確保にこそあったのかもしれません(東軍はこの隊商路の利益を分配するために連合を組み、そのついでにケドルラオメルの主張で死海同盟を討ったのかも)。

(3) 死海同盟を瞬時に壊走させたらしい

いよいよ向かってきた東軍に対し、死海同盟も立ちあがります。ところが、聖書の記録はこうなっています。

(東の)四人の王に対して、これら(死海付近の)五人の王が戦いを挑んだのである。シディムの谷には至るところに天然アスファルトの穴があった。ソドムとゴモラの王は逃げるとき、その穴に落ちた。残りの王は山へ逃れた。

創世記14:9-10

上記の引用は、省略していません。戦いを挑んだ次の瞬間に、死海同盟は散り散りに逃げているのです。
あまりにあっけない幕切れ。
戦わずに逃げ出したのかとも思える記録です。

情報網の発達していない時代ではあります。
12年の支配ののち13年目に反逆してからすでに1年が経過していたので(14:4-5)、警戒しつづけるのにも飽いていたのか。
警戒していたけれど、北を見張っていたら南から突如攻められて、態勢が整わなかったか。
東軍の目的を「王の道」制圧だけだと思っていたのか。
ケドルラオメルだけなら同盟を組んで戦えばどうにかなると思っていたところへ、四王の連合軍という規模に戦意喪失したのか。

いずれにしても、あえて反逆しておいて、宗主国が黙っているとは思っていなかったでしょう。まったく備えがなかったとは考えにくい。
とすればやはり、死海同盟を瞬時に破るか、戦わずに逃げ出させた東軍の戦力は、相当の規模だったと考えるべきでしょう。

以上、数字はわからないながらも、東軍はかなり大規模な陣容だったと想像できます。

3. アブラムの戦術

その東軍を、アブラムはわずかな手勢で破ったのです。

このときのアブラム軍は、戦闘訓練を積んだ奴隷318人が中心です。
アブラムと親しかったらしいアモリ人マムレ(14:13)が、ハツェツォン・タマルで東軍に討たれたアモリ人(14:7)のためにアブラムと共に戦ったかもしれません。しかし聖書の記録からは、あくまでこの戦闘の主力はアブラム軍だったと考え、マムレ隊は考慮からはずします。

東軍が死海同盟を破った帰路も王の道を通っていったなら、ヨルダン川の東を北上したことになります。
アブラムはマムレから、ヨルダン川の西を北上して追跡し、ダンで東軍に追いつきます。そして東軍を襲撃し、追撃を重ねて、ロトをその全財産と共に奪還した上に全捕虜を解放してしまったのです。
ギリギリでロトだけを救出というのではなく、たった318人の手勢で圧勝です。
っこの戦闘については夜襲だったことと、アブラム軍は新改訳によれば「展開」させて、新共同訳および口語訳によれば「手分け」して攻撃したということしか記録がありませんが、300人余で分かれて夜襲とはのちの時代のギデオンの戦いを思い出します。

東軍にしてみれば、連戦連勝で多くの分捕り品に沸き、あとは帰還するだけという、かなり弛緩した状態だったでしょう。付近の町々は往路で制圧してしまったのですから、敵の存在を想定もしていなかったかもしれません。せいぜい「エジプトが出てこなければ」くらいの気分だったでしょう。
そこへアブラムが夜襲。足手まといな多数の捕虜をかかえて包囲された東軍は、立て直す暇もあらばこその敗走。アブラムに追撃されるまま散々に討たれた、という戦いだったのではないでしょうか。

こうして、「神の民」アブラハム一族の初陣は、大国を相手に少人数での圧倒的な大勝利となったのでした。
この一族がイスラエルという名を賜るのはまだあとになりますが、神である主が敵をイスラエルの手に渡した最初の戦いでもありました(14:20)

この記事は

この記事は、東京基督教大学(TCU)の公開講座「エクステンション」を1999年に受講した際の、単元「時間空間を読む」の実践レポートを加筆修正したものです。

サムネの画像は、藤原カムイのコミック旧約聖書『創世記Ⅱ』から「ロトの救出」の章より。
個人的に、聖書のマンガ化でもっともすぐれた作品と思います。旧約聖書を五書から歴史書までマンガ化する構想だったようで、アブラハム契約までで止まってるのは残念。

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