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ネヘミヤの一瞬の祈り【ネヘミヤ記1-2章】【やさしい聖書のお話】

町と村の違い

町と村はどう違うか、わかりますか?
ぼくはわからなかったのでちょっと調べてみました。
千葉県には、54の市町村があります。
市が、市原市や千葉市、浦安市など37。
そして町が16と、村が1つ。

で、市というのは国の法律で「住んでる人が5万人以上」って決められているのだけど、町は県が決めることになってるそうで、だいたい「この村とこの村を一緒にすると5千人以上の町になるな」という感じで決めているようです。ただ、住んでる人が「いや、私たちは村のままでいいです」という場合もあるみたいだけど。

聖書では、というか古代には、町と村はもっとわかりやすい区別がありました。
これは町というか都市と、それ以外の区別なのだけど、全体が城壁で囲まれているのが町です。
有名なのは聖書に出てくるエリコの町で、町全体が巨大な壁の中にあったことが聖書に書いてあります。

聖書に出てくるエリコの町は全体が城壁で囲まれていた。
Christian Publishing House Blog より

エルサレムも、町全体が城壁で囲まれていました。エルサレムの神殿が城壁で囲まれていて、この神殿を囲むようにエルサレムの都があって、この都全体が城壁で囲まれていたわけです。

城壁で囲まれたエルサレムの都の中に、
神殿とその城壁がある。「嘆きの壁」は神殿の城壁。
口語訳聖書巻末より

いまだ廃墟のエルサレム

でもエルサレムの都は城壁ともどもバビロン軍に破壊されました。
エズラ記で読んだように「エルサレムの神殿」は建て直されたし、人々は板をはった家を建てていました。けれど「エルサレムの都」は廃墟のままで、城壁も壊されたままだったのです。
ということが、ペルシア帝国でアルタクセルクセス王に仕えていたネヘミヤに知らされました。ユダに帰った人たちがペルシアにやってきたので様子を尋ねると…

エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。

ネヘミヤ記1:2(新共同訳)

ネヘミヤはショックでした。
この時、アルタクセルクセスの第20年(紀元前445年)でした。
エズラがペルシアからユダに帰ったのがアルタクセルクセス王の第7年(紀元前458年)だから、それからでも13年も経っています。
神殿が完成したのがダレイオス王の第6年(前516年)だから、それからなら70年も経ってるのに。

ユダに帰還した人たちは、何をしているんだ!

思い出してください

ネヘミヤは、座り込んで泣いて、何日も悲しみ続け、食事もしないで天の神に祈り続けました。

「ああ、天の神、主。大いなる畏るべき神。主を愛し、その戒めを守る人々には契約と慈しみを守る方。
…どうか、あなたのしもべモーセに命じてこう言われたことを思い起こしてください
『…あなたがたが背信の罪を犯すならば、私はあなたがたをもろもろの民の中に散らす。だが、私に立ち帰り、私の戒めを守り、それらを行うならば、追いやられている者が天の果てにいるとしても、私はそこから彼らを集め、私の名を置くために選んだ所へと連れて来る。

ネヘミヤ記1:5-11(聖書協会共同訳)

「わたしの名を住まわせるために選んだ場所」というのはエルサレムのことです。

前にも言いましたが、エルサレムは神殿があるから聖地なのではなく、主が世界中からただこの場所を選んだから聖地なんです。
日本で「聖地巡り」というと、複数の聖地を巡礼することですが、聖書では聖地というのはエルサレムだけなので、聖地巡りというとエルサレムの都の仲をめぐることになるでしょうか。
もともとはエルサレムの中でも神殿があるところだけが聖地でしたが、ネヘミヤの時代から「聖なる都エルサレム」と、エルサレムそのものが聖地とされていきます(11:1)

とにかく、主が選んだエルサレムに、ペルシアから帰ってきた民がいます。それは、ペルシア帝国が許可したからというのではなく、主が彼らを集め、連れて行ったからですよね、とネヘミヤは主に訴えたのです。

そのことを「思い起こしてください」と。

聖書で「思い起こす」「思い出す」というのは、心の中で思い出すだけではなく、そのために行動するということです。
神である主には「うっかり忘れる」ということはないので、主にむかって「忘れてるでしょ。思い出してよ」ということはありません。「思い起こして今こそ動いてください」と求め訴える祈りです。

十字架の上で強盗がイエス様に「私を思い出してください」といったのも、ただ思い出して「懐かしいなあ」と思ってくれればいいというのではなく、「私を思い出して救ってください、あなたにはそれができると信じます」という意味です。
ネヘミヤが主に「モーセに命じたことを思い起こしてください」といったのも同じです。「今こそ主よ、全能の神よ、モーセをとおしてイスラエルに約束してくださったようにしてください」とネヘミヤは祈り求めたのです。

ネヘミヤ、大ピンチ

ところで、ネヘミヤがペルシア王アルタクセルクセス1世に仕えていたというのは、献酌官という役人をつとめていたのです。王が食事をするときにお酒を注ぐ係ということです。
ただ、献酌官という仕事の本質は毒見役です。王の酒や食事を味見して、毒が入っていないか確認するのです。
毒が入っていたら王より先に自分が死ぬ。逆に、その気になれば、王が飲む酒に毒を入れて暗殺することもできるポジション。重要で、しかも信用されてるということですね。

とにかく、王様が安全に気持ちよく楽しく食事できるように、一番そばにいるわけです。だからネヘミヤは王様の前では暗い顔をしたりしないように気を付けていた。
でもその日は王様から「どうして暗い表情をしているのか」と言われてしまった。

王はわたしに尋ねた。「暗い表情をしているが、どうかしたのか。病気ではあるまい。何か心に悩みがあるにちがいない。」

ネヘミヤ記2:2(新共同訳)

アルタクセルクセス王はとてもやさしい王様ですね。献酌官の表情が暗いというので「悩みでもあるのか?」と気にかけてくれる。

でもネヘミヤはそれどころではありません。王に言われたネヘミヤは、
新共同訳では「わたしは非常に恐縮して」ですが、
聖書協会協会共同訳では「私はひどく恐れて」、
New International Versionでは「I was very much afraid」と、
かなりの緊迫したことが伝わってきます。
献酌官ネヘミヤは「暗殺計画が動いていると思われたか?それを私が知っていると疑われたか?」と恐れたのでしょう。

誤解を解くためには(でもたぶん王は誤解してなくて本気で心配したのだけど)、なぜ暗い顔をしてしまったか正直にいうしかありませんでした。

ネヘミヤが「先祖のお墓のある町が荒れ果てて、城門も焼け落ちたままだと知らせが入ったので悲しいのです」と答えると(ネヘミヤ記2:2-3)
王は「お前の望みはなんだ?」と聞いてきてくれたのです(ネヘミヤ2:4)。うん。やさしい王様です。

一世一代の大勝負

ネヘミヤは王様に応える前の一瞬に、天の神に祈った。そして王様に「王様がゆるしてくださるなら、先祖の町ユダに行かせてください。町を再建することが望みです」と答えた。

わたしは天にいます神に祈って、王に答えた。「もしもしもべがお心にかない、王にお差し支えがなければ、わたしをユダに、先祖の墓のある町にお遣わしください。町を再建したいのでございます。」

ネヘミヤ記2:4-5(新共同訳)

 一世一代の大勝負です。
もし天の神が祈りをきいてくれて、王様の心を動かしてくだされば、エルサレムの都を直すことができる。
もしそうでなかったら、エルサレムの都は廃墟のままで、、
すると王様は、お妃さまと一緒に、「いつ帰ってこれる?」とたずねたんだ。

王はかたわらに座っている王妃と共に、「旅にはどれほどの時を要するのか。いつ帰れるのか」とたずねた。

ネヘミヤ記2:6(新共同訳)

ネヘミヤ、王様とお妃さまからめちゃ信用され大事にされてる!
献酌官をまかせられるほど信用信頼できる代役を探すのは大変だということもあるだろうけど。
でもこれって、「行っていいよ」ってことだよね。エルサレムに行って、やるべきことをやって、ペルシアの都スサに帰ってこれるのはいつ?という意味だよね。
そこでネヘミヤは、自分が王様のもとを離れることになる期間を説明した。そして「ユダまでの途中の役人に渡すために、私が王様に許可されてユダまでいくのだという手紙をください」とお願いしたんだ。

さらに「エルサレムの城壁などの修理に必要な木材を役人が私に与えるように、という手紙もほしいです」って(2:6-8)。
 
いやちょっと待て、さすがに調子に乗ってるぞネヘミヤ、というところなのだけど。
でもネヘミヤは、「王様が許可してくれたということは、主が王様を動かしたんだ、主が私のさっきの一瞬の祈りを聞いてくれたんだ」とわかったんだ。
だからネヘミヤは、王様に「ついでにこれも、あとこれも」て欲張ってるんじゃなくて、主に「もっと王様を動かして!」と欲張ってるんだ。必要なものは主が与えくれるよねと信頼して。

するとどうなったか。『神の御手がわたしを守ってくださったので、王はわたしの願いをかなえてくれた』と書いてあります(2:8)。

一瞬の祈り

王から「何を望むのか」と聞かれたとき、ネヘミヤが天の神に祈ったというのは、どう祈っただろう。

王様との会話中に、目を閉じ指を組んで、「天の神さま」ではじめて「イエス様のお名前でお祈りします。アーメン」で終わるような時間をかけた祈り方はできなかっただろうね。
ていうか、まだイエス様が世に来るより450年くらい昔の話なんだよ、これ。

実は、一瞬で祈れる方法があります。それは主の名を呼ぶことです。
主の名を呼ぶことは、アダムの孫のエノシュの時代に始まったことなのだけど、これはもっとも基本的な祈りであり礼拝だと思う。

(アダムとエバの三男)セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。

創世記4:26(新共同訳)

ぼくたちの主である神の名前は、カタカナで無理やり書くと「ヤハウェ」です。「ハ」が日本語にない独特の発音なので、聞くと「ヤーウェ」って聞こえるかも。
ネヘミヤ記には主の名はあまり出てこなくて「天にいます神」などの呼び方が多いのだけど、でもネヘミヤは王様との会話のあいだの一瞬に天の神に祈ったというのは、きっと心の中で主の名を呼んだんだと思う。「ヤハウェさまっ!」って。

この王様との会話は、一世一代の大勝負だぞと。
自分が王様に正しくこたえられるように。
主が、キュロス2世の心を感動されたように、アルタクセルクセス王の心を動かしてくださるように。
でもそんなこと長々と祈ってる時間はない。ただ主の名を呼ぶのが精いっぱいだったと思う。
「主におまかせします、ゆだねます、全部よろしくお願いします」という気持ちを全部ぶちこんでの「ヤハウェさまっ!」だったのだろうと。

ヤハウェという呼び方になれてなかったら、イエス様の名前でいいんだよ。イエス様の名前で祈ることはみなかなえてあげようって、約束されているのだから。
ペトロは、ペンテコステのお祭りで聖霊様がくだったときには、エルサレムの人たちに向かって声を張り上げて、「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と預言されていたのはこのできごとのことなんだ!と伝えた(使徒2:21)
議会で裁判を受けている時には「わたしたちが救われるべき名はイエス・キリストという名の他にはない」と証言した(使徒4:12)。

ネヘミヤのように、祈ってる時間がないというときもある。
どうしても祈れない気持ちの時というのもある。
そんなときは心の中で「イエス様!」と主の名を呼ぶだけでも大丈夫。
私たちに必要なことはすべて知っていてくれる天の父が、イエス様の名を呼ぶぼくたちの祈りを聞いてくれるから。

《動画版》

このnoteの内容は、2022年10月30日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。

動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。
また、このnoteの内容は完全に個人のものです。


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