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これはブラック体質なのか?【コロサイの信徒への手紙1:24】【やさしい聖書のお話】

コロサイの信徒たち

今日から、コロサイの信徒への手紙を読んでいきます。
「どこどこの信徒への手紙」というのは、「〇〇の町のクリスチャンたちへの手紙」という意味。それだけクリスチャンがいて、つまり教会があって、そこにパウロは手紙を送って教えたり、励ましたり、アドバイスしたり、時には叱ったりしてた。

聖書には、パウロがコロサイに行ったとは書いてない。ただ、パウロがエフェソに2年間いたときは、このアジア州に住んでる人は誰もが主の言葉を聞いたと書かれているので(使徒19:10)、コロサイのクリスチャンたちもその時に主を信じたんだと思う。

コロサイのクリスチャンたちはキリストの福音をパウロの仲間のエパフラスから学んだよね、ってこの手紙の最初のほうに書いてある(1:7)。
ただ、エパフラスが牧師とか教会のリーダーだったとしても、パウロはこの手紙で「エパフロスがあなたがたによろしくと言ってます」って書いてるから(4:12)、エパフラスはコロサイを離れてパウロと一緒にいるんだ。そしてパウロはこの手紙をローマに2年間住んでいる時に書いていたらしいし、ローマはコロサイからはけっこう離れてる。

リーダーのエパフラスが留守。パウロはもちろん、ほかの使徒がコロサイに来ていた様子もない。
そんな、牧師がいなくて教会員だけみたいな教会にパウロが送った手紙を見ていきます。

苦しむことを喜びとする

 今日の個所でパウロはこう言っています。

今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。

コロサイの信徒への手紙1:24(新共同訳)

あなたがたコロサイ教会のために私は苦しんでいるのだけど、その苦しみを私は喜んでるんだ、というのです。
「今や」と言ってるけど、この手紙を書いたときのパウロの「今」というのは、エルサレムで逮捕されて囚人としてローマに送られてきています。見張りがついていて外出したりする自由がないということだけで、自分で借りた家に住んで誰とでも会うことができた。苦しむといっても、「苦しくて死にかけてます」というよりは、「不自由で苦労してます」という感じだと思う。

まあ、苦しみというよりは苦労だとしても、しなくてすむ苦労ならしたくないよね。
日本では「若いうちの苦労は買ってでもしろ」という言葉があってね。「お金を払ってでも、苦労を経験しておいた方がいい」って。
同じ結果を出すなら、苦労が多い方が尊い、苦労しないように工夫して結果を出すのはズルだ、みたいな考え方をする人が少なくないのが日本なのだけど、そんなのブラックなだけじゃないかって思うよね。
 
だけどパウロは「苦労が喜びだ」っていうんだ。
で、実際のところ、苦労が喜びになるってことはあるし、それはみんなも経験があると思う。

たとえばゲーム。最近はスマホアプリとか秒でクリアできるゲームもあって、それはそれで楽しいけど、ボスキャラと戦う前にレベ上げ頑張ったり、難しい謎を解いたり、そういう苦労が必要なゲームって、苦労したからこその勝利の喜びだったり、クリアの喜びがあるよね。
レべ上げがただ面倒なだけだとクソゲーって言われたりするけど、レべ上げの苦労そのものが楽しめるようにつくられてるゲームだと神ゲーと呼ばれる名作にもなる。

ジグソーパズルなんかも、そう。16ピースのジグソーパズルなんて、いつまでも楽しんでいられない。100ピースとか1000ピースとか、もっともっと「苦労しないと完成しないゲーム」をやりたくなる。

勉強もそう。苦労して頑張ったから、わからなかったことがわかるようになったり、できなかったことができるようになったり、作れなかったものを作れるようになったりする。そうなると、「楽にできるのはつまらない。もっと苦労するやつに挑戦したい、そのほうが楽しい」ってなったりする。

みんなのお母さんやお父さんは、特にみんなが赤ちゃんのときはとても苦労したと思うよ。じゃあなんで、「もう子育ての苦労いやだ。やーめた」ってならないで、今日までみんなのことを育ててくれたんだろう。それはたぶん、その苦労の中に喜びがあったからだと思う。赤ちゃんを育てるのはとても苦労するけど、でもあの赤ちゃんのニコって笑顔。あれでもう、この子のためならがんばれる、この子のためなら苦労も喜びになる、って思えるんだ。 

苦労はすべて悪い、いらない、ということではないんだ。

脱線するけど、ぼくは今の上皇陛下が天皇だった頃、だいたい毎年の天皇誕生日に、皇居にお祝いに行ってました。
で、皇居の宮殿前広場に集まったぼくたちに天皇陛下が短くお言葉、スピーチするのだけど、いつの年だったか、災害が多かった年だったと思うんだけどね、「多くの苦しみが」とか「悲しみが」とかって言いなおして最後に「多くの苦労があったことと思います」って言ったんだ。
「苦労」という言葉は、ただの「苦しみ」じゃなくて、「労」の字がつく。「労」はがんばるっていう意味だね、労役とか労務とか労苦とか、無理してまで頑張るという感じの熟語も多いけど、でも「ねぎらう」「いたわる」という意味もあるから、陛下は「多くの苦労が」ってどうしても言いたかったんじゃないかなって思う。苦労の多かった人々によりそう気持ちを、陛下は伝えたかったんじゃないかなって思ってる(確か次の年からは、陛下のお言葉は原稿を読むスタイルになっちゃったんだけどね)。

パウロの喜び

パウロが喜びだと言ってるのは「あなたがた」つまり教会のための苦労です。パウロは、教会はキリストの体で、キリストは教会の頭だって教えてるのだけど、だから教会のために苦労することはキリストのために苦労することなんだね。

なぜパウロはこんな話をしたんだろうね。
「教会のためなら苦労も喜びになる私ってどうよ?」って自己満のため?そうじゃないと思う。
たぶんパウロは、「私を見てみろよ、私を知ってくれよ」って思ってた。イエス様に罪をゆるされて、イエス様に救われて、イエス様に変えられて、だからイエス様のために生きているこの私を見てくれ。
イエス様のために、イエス様の体である教会のために苦労することの喜びを知ってくれって。

わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。

コロサイの信徒への手紙2:1-2(新共同訳)

パウロには何人も協力者がいました。新共同訳聖書で「協力者」と訳している言葉は、その前のバージョン(口語訳)では「同労者」って訳してたのだけど、「同じ苦労を一緒にする仲間」という感じがあってぼくはこっちの翻訳が好きだったな。
で、パウロは、コロサイ教会のみんなにも、自分の協力者、同労者になってほしいんだと思うんだ。だから「私を見てくれ、教会のために、教会のかしらであるキリストのために苦労することはこんなも喜びがあるんだ」って言ってるんだと思う。

なぜ教会なのか

聖書には、教会に行かなければならないなんて一言も書いてない。
じゃあなんでぼくたちは教会に行くのかっていうと、そこにはクリスチャンたちがいるから。主のために苦労すること、たがいのために苦労することを喜ぶ同労者たちがいるから。
教会はキリストの体とは言っても、人間が集まるところだから教会にはいろいろやっかいなことも多い。それでも教会には、同じ信仰で、同じ神を賛美する、ともに苦労できる仲間たちがいる。
しなくていい苦労はしなくていい。しなくていい苦労をさせられるのはただのブラックだ。でも、ただワイワイ楽しいだけの仲間よりも、一緒に苦労を喜べる仲間の方がずっと尊いのも事実。そういう苦労はぜんぜんブラックじゃないんだ。
みんなが教会を喜んで、そして主の教会のために一緒に苦労することを喜べたらいいなって思ってます。

ジョン・F・ケネディは、アメリカ合衆国の大統領に就任する時の演説で、国民に向かって次のように呼びかけた。

Ask not what your country can do for you;
ask what you can do for your country.

「国があなたに何をしてくれるか」ではなく、
「あなたが国に何をできるか」を考えるんだ。

大統領就任演説より。1961年。
ジョン・F・ケネディ。1960年代のアメリカ合衆国大統領。

ぼくたちはどうだろう。「教会が私に何をしてくれるか」ばかりを考えていないだろうか。「私は、キリストの体である教会のために何をできるだろう」を考えているだろうか。
キリストがどんな苦労をすでにしたか、思い出そう。君のために、君の罪がゆるされるために、この世でもっともひどい死に方のひとつである「十字架での処刑」で死ぬという苦労を、キリストは君のためにやってくれた。そんなことをしなくても神であるキリストは何も困らなかったのに、君を愛しているからというだけの理由で、喜んでこんなに苦労してれた。
君は、キリストのため、キリストの教会のため、どんな苦労を喜んでやることができるだろう。

君自身が教会

教会は、イエスは主であると信じる人たちの集まりのこと。だから、君がイエス様を信じて教会に来ているなら、君は「教会のお客さん」ではない。君が教会なんだ。

ということは、「教会のための苦労」というのは「自分のための苦労」ということになるよね。

教会のための苦労を喜ぶというのは、「教会の人に言われたことはすべて文句をいわずに従わなければならない」という話ではないよ。残念なことにそうなってしまっている教会もあるけど。
自分がケガをしたときに、血が流れているまま何もしないで、誰かが手当てしてくれるのを待ってるなんておかしいよね。教会がおかしい、教会が間違ってると思うことがあるなら、それを直すことも「教会である君自身」がやることなんだよ。

「苦労の強制」はただのブラックだからね。そんなものは、我慢しちゃいけない。
でも、キリストのため、キリストの教会のための苦労を喜びにすることができるなら、それはとても幸せだし素晴らしいことなんだ、それをパウロはもう経験していたし、多くのクリスチャンたちも教会のための苦労を喜んできたということを、知っておいてください。 

動画版はこちら

この内容は、2022年6月12日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。

動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、このページと動画の内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。

動画版は↓のリンクからごらんいただくことができます。


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