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信仰について-人間【バプテスト初歩教理問答書】

第18-22問、人間の創造に関する問答を読んでみました。

Ⅱ 信仰について (2)人間

第18問、「いちばんはじめ」のふたり

第18問 いちばんはじめに造られた人間は、だれとだれでしたか。
答 アダムとエバです。
創3:20

『バプテスト初歩教理問答書』

創世記3:20
人は妻の名をエバと呼んだ。彼女が、生きるものすべての母だからであった。

『聖書 新改訳2017』

参照箇所がなぜ、アダムの創造でもエバの創造でもなく、アダムの命名はスルーしてエバの命名のここなのだろう、ということを考えてみたのだけど。
よくわからない。
すべての人はエバの子孫だから、アダムとエバが「はじめ」だ、ということだろうか。

それはそれとして、「いちばんはじめに造られた人間」をアダムだけでなくエバも上げてるのはよいと思う。
アダムについてだけ言及するのって「だから男がえらいと聖書が示している」というためかなと思ってしまう。

キリスト教の歴史は「聖書をつごうよく使ってきた歴史」でもあるんだよな。
ほかにも「聖書が奴隷制を支持している」とか。
「汝、殺すなかれ」というのは人間を殺す禁止であって、有色人は人間ではないから何をしてもいいとか。
キリスト教を知らない野蛮な民族を植民地化してキリスト教化してあげるのが正しいとか。
「平和をつくりだす者は幸いである」と聖書に書いてあるから、戦争を終わらせるために原爆を使ったのは正しいとか。
キリがない。

「キリスト教の教えは立派だけど、キリスト教徒のやってることは」と言われたら反論できないんだよな。
教会やクリスチャンが日本の80年前の戦争の責任うんぬん言うのを聞くたびに、わたしゃ恥ずかしくてしかたない。

第19問、人だけ材料あり

第19問 アダムとエバは、何から造られましたか。
答 アダムのからだは、土から造られ、エバはアダムのからだのあばら骨から造られました。
創2:7,22

『バプテスト初歩教理問答書』

創世記2:7
神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きる者となった。
創世記2:22
神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。

『聖書 新改訳2017』

天地創造の物語の中で特異なのは、人だけが材料があったこと。
神は「光あれ」などの言葉だけで創造を進めたけど、アダムは土のチリから、エバはアダムの肋骨から創造された。
この違いは何を意味するのだろう。

クリティカルパス的に考えると、人より前に創造されたすべては、最後に人を創造して生かすためだったのではと思う。
最初に人を創造して混沌の中に放り出すのではなく。
人が生きるための世界を創造してから、その中から大地のちりをとって人の材料とした。
エバがアダムの一部をとって創造されたのは、「人の創造の枠内だよ」ということかなって。

第20問、たましいと霊は同じ?違う?

第20問 神さまは、からだのほか、人間に何をお与えになりましたか。
答 神さまは、けっして死ぬことのないたましいをお与えになりました。
創1:26,27、2:7、伝12:7

『バプテスト初歩教理問答書』

創世記1:26-27
神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
神は一をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
創世記2:7
神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。
伝道者の書(コヘレトの言葉)12:7
土のちりは元あったように地に帰り、
霊はこれを与えた神に帰る。

『聖書 新改訳2017』

参照箇所は、「神のかたちに」「いのちの息つまり霊を吹き込まれて」ということなのだろう。「たましい」は、肉体の死のあとも存在し続けてハデス/よみに行き、世の終わりに神の国か、火の池に行くことになる。

ただパウロは、人は「霊、たましい、からだ」でできていると書いてて(1テサロニケ5:13)、霊とたましいは別物らしいんだが。
「答」はたましいの話、参照箇所は「霊」の話だよな、これ。

あと、こういう話題で創2:7を出すと、じゃあ「いのちの息」を吹き込まれたという記述がない他の生物は「たましい」がないんだ?と。
伝道者の書3:19-21では、人と獣は「同じ息(他の訳では霊)」を持っていて違いはないというんだが。

第21問、たましいはあるんです!

第12問 あなたは、自分が、たましいを持っていることが、どうしてわかりますか。
答 わたくしは、神さまと後の世のことについて考えることができるからです。
伝3:11

『バプテスト初歩教理問答書』

伝道者の書(コヘレトの言葉)3:11
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることはできない。

『聖書 新改訳2017』

今回こうして教理問答書を読み始めて気付いたのは、問答書は「問答というかたち」で、つまり「問と答のセット」で教えるスタイルなのだなということ。
問答集の「問」は、模範解答である「答」を言わせるため、おぼえさせるため、みたいな感じでがしてて気持ち悪かったんだけど、そうじゃないんだって。

第21問でいえば、「人(自分)がたましいを持っていることがどうしてわかるか」という問いに対する正解が「神と後の世について考えることができるから」なのではなくて。
問と答のセットで「人(自分)がまたしいを持っていることは、神と後の世について考えることができるということからわかる」ということを教えたいんだなと。

「たましい」というものが科学的にはどういう扱いになっているのかはわからない。
少なくとも「モノ」として人体内に存在するものではないよね。マクドゥーガルの実験の結果「魂は約21g」というのは否定されてるし。

で、モノとして存在しない=無い、なのか?

「神がいるというなら見せてみろ」という人にぼくは「あなたの心を見せてみろ、見せられないならあなたには心はないということでいいか?」と反駁することにしている。
「見えないものは存在しない」というのは「地球が太陽を回ってるとは聖書に書いてない」というのと同じ思考だと思う。

「見えないけれどある」というものはたくさんある。
たとえば空気は見えない。でも空気抵抗とか風といった作用によって、つまり「空気が何をするか」を知ることによって、空気があることを知ることができる。
心とか、霊とかたましいというものも同じ。それらは脳内の電気信号にすぎないという話は意味がない。仕組みの話ではなく作用の話で、心とか霊とかたましいと呼ばれるものが何をするかによって、そのように呼ばれているものが存在することを知ることができる。「神と後の世を思うことができるから、たましいはあると言えるんだ」はそういう意味なんだろうと思う。

言い換えれば「われ思う。ゆえにわれ在り」ということ。

第22問、創造されたときはよいものだった

第22問 アダムとエバは、どのような状態に造られましたか。
答 神さまは、二人をご自身に似せて、きよく、幸福にお造りになりました。
エペ4:24、コロ3:10

『バプテスト初歩教理問答書』

エペソ4:24
真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。
コロサイ3:10
(あなたがたは)新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。

『聖書 新改訳2017』

言いたいことはわかるけれど。
問と答は、罪を犯す前の本来の状態のことなのに、参照箇所は罪から回復された状態のことだから、噛み合ってない感じがする。主張ありきで、それにあう節を前後豚切りで持ってきてしまっているような?

次回は

次は「信仰について」の章の「(2)人間」の続き、「きよく、幸福に」造られたアダムとエバの罪について読みます。

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