見出し画像

イエス様は裁判官?裁判官ではない?【ルカ12:13-21】【やさしい聖書のお話】

2023年2月19日の聖書のお話です。

王様は裁判官

ある人がイエス様のところにお願いしに来ました。
「親が死んだのだけど、親の財産を兄弟が独り占めしてるので、私に分けるようにいってほしい」
なぜこの人は、イエス様にこんなことを頼みに来たんだろうか。 

モーセは、イスラエル人のもめごとを全部判断する裁判官でもあった(出エジプト18)。

ソロモン王も、イスラエルの王様であり裁判官だった。神様からもらった知恵で裁判をおこなったから、人々は「こんな王様がいては悪いことはできない」と恐れたほどだった(列王記上3:28)。

イエス様の時代、ローマ帝国のユダヤ地方の責任者だったピラトは、裁判官でもあった。だからイエス様をつかまえた人たちはピラトに「イエスを裁判して死刑にしてくれ」と言った。

ローマ皇帝も、帝国を支配する王様で裁判官だった。だからパウロは、ユダヤ人から訴えられた時に「ローマ皇帝から裁判を受けたい」と希望した。

昔は皇帝とか王様がすべての権力を持っていたんだ。
それはよくないというので、法律を作る権力(立法)と、法律にもとづいて政治を行う権力(行政)、法律に基づいて裁判を行う権力(司法)を別々の人が持つようにしたのが三権分立という考え方で、日本も三権分立の国です。
でも、たとえば韓国は大統領が最高裁判所の裁判官を好き勝手に交代させることができる。司法よりも大統領が強い国です。
アメリカは裁判官を選挙で選ぶので、裁判官候補者は「民主党系の裁判官」「共和党系の裁判官」と公表して投票してもらうわないといけない。裁判所が政治から独立してなくて中立ではない。
日本は首相(行政)が最高裁判所の責任者(司法)を選ぶけれど、でもやめさせることはできません。そういうこともあって世界的にも「三権分立が比較的よく機能している国」と言われます。
ただ日本の場合は逆に、主権者である国民の意見がほとんど司法に関係しない(国民が選んだ国会における代表者でも裁判官をやめさせることができない)というのは別の問題がある気もします。でもそれをいうと韓国の最高裁判所のように、法律よりも世論や国民感情を優先しすぎているように見える司法だと、信頼を失ってしまうでしょう。人間がつくる仕組みはなかなか完璧というものがないですね。

イエス様は裁く!

ところでイエス様はメシア、救い主です。
メシアというのは神様に選ばれて頭に油を注がれた人のことで、たとえばダビデも頭に油をそそがれて王様になりました。
イエス様がメシアであるということは、王様であるということだし、王様は裁判もする。

旧約聖書も、救い主は正しい裁きを行うと預言している(イザヤ11:3-4)
イエス様自身、「裁く権能」を父から与えられていると言っているし(ヨハネ福音書5:27)。

そうすると、イエス様に「兄弟とのもめごとを裁いてください」と願った人は、何も間違ってないよね。旧約聖書の律法にも、兄弟が親の財産を分ける時についての決まりがちゃんとあるんだし(申命記21:15-17)。

なのにイエス様はその人にこう答えたんだ。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
 いったいどういうことだろうか。

あなたはイエスを何者だと考えるか

裁判官ではなく、裁く権能がある

メシアであるイエス様は裁く権能を父から授かっている(ヨハネ福音書5:27)。
権能っていう言葉は難しいけど、裁く資格を持っていて実際に裁くことができるという意味だ。

でもだからといって、イエス様は「裁判官」ではないんだ。裁判官は裁くのが仕事だけど、イエス様の仕事は裁くだけじゃないからね。裁くことは、イエス様の全部ではなく一部分でしかない。イエス様は「私は裁くけれども裁判官ではない」と言いたかたったのだと思う。

じゃあイエス様は何なの?

よい教師?

ある人たちは「イエスというのは『敵を愛しなさい』などよいことを教えた、素晴らしい道徳の先生だ」と言います。

でも、道徳の先生が「わたしを信じる者は死んでも生きる」とか言い出したらどう?どんなに良いことを教えていても「すばらしい道徳の先生」なんて言われないよね。それより「おかしな人」と言われる。「こんな先生が学校で教えるのは問題だ」ってなるだろうね。

社会活動家?

「イエスというのは社会で苦しめらている人たちを助けるために登場した、社会活動家だ」という人もいます。
「弱い人に寄り添って支えた、福祉活動家だ」という人もいます。

でも律法には、「大勢の声に従って判決を曲げてはならない」「裁判のときに弱い人をひいきしてかばってはいけない」という決まりもある(出エジプト23:2-3)。

それにイエス様は、ファリサイ派や律法学者といった社会的に強い人たちのこともあきらめなかった。弱い人によりそっただけでなく、強い人たちにも寄り添おうとした。
イエス様は弱い人だけの救い主であって強い人は差別する、なんてことはしない。

反戦活動化?

「イエスは戦争を禁止して平和にするために登場した、反戦活動家主義者だ」という人もいます。

確かにイエス様は「平和を実現する人は幸いだ、その人たちは神の子だ」と言った。
でも「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」とも言っている(マタイ10:34)とも言っている。

ゲツセマネの園でペトロがつるぎを使ったときに「剣を取る者は皆、剣で滅びる」とも教えた(マタイ26:52)
でもゲツセマネに行く直前に「剣のない者は、服を売ってでも剣を買いなさい」と言ったのもイエス様だ。だからペトロは、剣を持ってイエス様に従ったんだ(ルカ22:36,38)

イエス様は、裁くけれど裁判官ではない。
教えるけれど先生ではない。
弱い人に寄り添ったけれど、強い人も含めてすべての人とともにいる。
平和の王だけど、イエス様が来ることで戦争が起きる。

自分の考えに都合のいい「イエス様の一部分だけ」じゃなくて、イエス様のすべてを見ないといけない。

イエス様は、洗礼者ヨハネを人々が好き勝手に扱ったと言った。
ぼくたちは、イエス様を好きなように扱ってはいけない。
聖書の一部だけを見てぼくたちが勝手に決めた「イエスさまってこういう方」じゃなくて、聖書が全体として伝えている「イエス様はこういう方」を見ないといけないです。

動画版のご案内

このnoteの内容は、2023年2月19日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?