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徴税人レビ(マタイ)がイエス様の弟子になる【マルコによる福音書2章13-17】【やさしい聖書のお話】

〔この内容は、布忠が教会学校リーダーとして作成している動画の原稿を再構成したものです。教会に来ている子供たちを対象にしているため、キリスト教の信仰に不案内な方には説明不足なところが多々あるかと思います。動画は以下のリンクからご覧いただけます。〕

マタイという人

12弟子の中には、聖書に名前しか出てこない人もいますが、先週も登場したシモン・ペトロとアンデレの兄弟、ヤコブとヨハネの兄弟などは、聖書に登場することがわりと多いのでどんな人だったのか少しは想像できます。

今日は、12弟子のひとりマタイがイエス様の弟子になったときのお話です。
『マタイによる福音書』を書いてイエス様を伝えている、あのマタイです。
といっても『マタイによる福音書』には、マタイが書いたとは書かれていません。ただ、古くからこの福音書は使徒マタイによると証言があり、4世紀の教会歴史家(という職業があったようです)エウセビオスが、2世紀はじめの主教パピアスの証言を記録しています。

マタイはヘブル語で神の語録を集成した。そしてめいめいが、自分の能力に従ってそれらを解釈した。

エウセビオス『教会史』(いのちのことば社『新聖書辞典』の「マタイの福音書」の項目より)

エウセビオスは2世紀後半の主教イレナエウスの証言も伝えています。

マタイもまた、ペトロとパウロがローマで福音を伝え、教会の基を築いていた時、へブル人の中で自国語で福音書を著した。

エウセビオス『教会史』(いのちのことば社『新聖書辞典』の「マタイの福音書」の項目より)

へブル人(ヘブライ人)というのはユダヤ人のことだと思っていいです。その自国語とはヘブル語(ヘブライ語)です。ただ、マタイによる福音書はギリシャ語の写本しか発見されていないし、

  • 他の言語からの翻訳ではなく最初からギリシャ語で書かれたっぽい。

  • 福音書記者のマタイは使徒マタイとは別人では。

という考えから「エウセビオスの著書は信用できない」という意見もあります。なので実際のところはまだわかっていません。
ただ大事なのは、教会が「この福音書は聖書の中に入れるべきものだ」と考えて伝えてきたということです。つまり、
「誰が書いた言葉か」よりも
「神様からの言葉だ」が大事だよねということです。
伝統的な考え方をふまえて、マタイは「神様から私たちへの言葉」を文章にまとめて私たちに伝えてくれた人、らしい、くらいに考えておくのがいいでしょうか。

マタイ=レビ?

 ところで聖書には、ペトロの本名がシモンだったりというふうに、同じ人がいろいろな呼ばれ方をしています。今日の個所に出てくる「徴税人のレビ」は、他の福音書で「徴税人マタイ」と呼ばれている人と同一人物だろうと考えられます。

「レビ」という名は創世記に登場するレビ(イスラエル12部族のレビ族の祖)にちなむ、由緒ある名前。「結ぶ」という意味で、初代レビが生まれた時「この子のおかげでお母さんとお父さんがしっかり結ばれるように」という祈りをこめて名付けられました。
レビという名前は今でも使われていて、たとえば

リーバイスのロゴ

ジーンズの有名ブランド「リーバイス」をつくったリーヴァイ・ストラウスLevi Strauss)は、「レビ」の英語読みです。先祖はユダヤ人とのこと。

『進撃の巨人』の人気キャラ、調査兵団のリヴァイ・アッカーマン兵士長Levi Ackerman)も「レビ」に由来する名前です。

Levi Ackerman

「マタイ」という名前は「神の賜物(ギフト、プレゼント)」という意味。英語ではMatthew(マシュー)で、赤毛のアンのマシュウ・カスバードMatthew Cuthbert)などがマタイに由来する名前です。省略形でマット(Matt)という名前もあります。

アニメ「赤毛のアン」より、アンと養父マシュー・カスバード

マタイの召命

 マタイがイエス様の弟子になったときの話は、「聖マタイの召命」という有名な絵にもなっています。

カラヴァッジョ「聖マタイの召命」

この絵は、カファルナウムの町で税金を集める役所を描いています。座っているのは徴税人と呼ばれる、税金を集める仕事の人たちで、テーブルの上にもお金が散らばっています。そこに入ってきたイエス様が「私に従いなさい」と言った瞬間を描いています。
ところで、この絵のどの人がレビ(マタイ)か、わかりますか?
真ん中のひげの人、自分をゆびさして「私?」と言っているようにも見えるし、左はしの若者をゆびさして「こいつ?」と言ってるようにも見えるので、どちらなのだろうとナゾになってるんです。

まあそれはいいとして、問題は、人々からラビ、先生と呼ばれて尊敬されていたイエス様が、徴税人を弟子にしようとして「私に従ってきなさい」と言ったことで大炎上してしまいました。

このころのユダヤは、ユダヤという国ではなく、ローマ帝国の中のユダヤ属州だったんです。
それでローマに税金を納めなければいけなかった。ローマは、現地の人をやとって税金を集める仕事をさせていたんです。それが徴税人です。
一方でユダヤ人は、自分たちは聖書が伝える本当の神様を信じているけれど、異邦人(外国人)は本当の神様をしらないやつらだ、という考えだったので、できるだけ異邦人とつきあわないようにしようと考えていたんです。

というのは、
異邦人と交流→外国の神様を礼拝→聖書の神様を裏切る→聖書の神様の守りを捨てて国が亡びる
という歴史があったからです。
だからユダヤ人は、本当の神様を知らないローマ人なんかに雇われてる徴税人というのは、罪深い異邦人と同じだ、というふうに思っていたんです。

もし当時「絶対になりたくない職業」なんて調査があったら、徴税人と羊飼いのどちらかが1位、もう一方が2位だったでしょう(羊飼いは羊と野宿するなどのために礼拝に行けなかったので、律法を守らない罪深い職業とされていた)

 そんな「徴税人」を、イエス先生が弟子にした! 

イエス先生を見に来ていた人たちは驚いたでしょう。
ファリサイ派など、ユダヤの宗教家たちは反発したでしょう。
イエス様の12弟子のひとり「熱心党のシモン」なんかは、熱心党というのは「戦争してでもローマ帝国をぶったおして、ユダヤを神様が支配する国に戻そう」という意見だったから、「なんでローマの手先の徴税人なんか」って激怒したかもしれません。

ところがイエス様はさらに、レビの家にいって一緒に食事までしたんです。

今はコロナで、教会でのランチは休止したままですが、教会ではよくみんなで食事してましたよね。一緒に食事をするというのは、愛のある親しい関係の証拠なんです。
主の晩餐式(聖餐式)も、主とともにみんなでパンとぶどうの杯をいただくことに意味があります。千葉バプテスト教会でも、コロナのために教会に集まるのを中止していた時、ライブ配信でそれぞれの家でパンとぶどうの杯を用意するというやり方で主の晩餐式をやれないかという意見もあったのですが、それは本当に「一緒に食事する」ということになるだろうかというところが難しくて答えを出せませんでした。
それくらい、ともに食事をするということは「私たちは仲間だ、家族だ」という意味になるんです。

なのにイエス様は、徴税人レビなんかの家に入って、しかも一緒に食事までしたんです。
レビだけではなくて、『多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていた』と書いてあります。

「イエスは、なぜ徴税人みたいな罪びとたちと一緒に食事をするのか」と大炎上したのも当たり前でした。
でもイエス様は彼らに答えました。

救い主は誰のため?

イエス様の答えは、こうでした。
「医者は誰のためにいると思いますか?体が丈夫な人のためですか?違いますよね、病気の人のためですよね。
救い主は誰のために来ると思いますか?救いが必要ない正しい人のためですか?違いますよね、救いが必要な人のためですよね。
救いが必要な人って誰ですか?罪びとですよね。罪をおかして滅ぶはずの人を救うために、救い主が来るんですよね。」

 医者が病気の人を招くのは、患者を治して、病気から解放するためです。
救い主イエス様が罪びとを招くのは、罪を悔い改めさせて、滅びから救うためです。
ルカによる福音書ではイエス様の言葉はこうなっています。

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるためである。

ルカによる福音書5:32

レビは、自分は徴税人だから、罪びとだ。神様は自分とは関係ない、と思っていました。
なのにイエス様は、「わたしは罪びとを招くために来たのだ」と言ったんです。
レビの名前の話にもどりますが、きっとレビというよくある名前が本名で、そして「イエス様は罪びとの私を招くために来られた」と聞いたときに、うれしくて「神の賜物、ギフト、プレゼント」という意味の「マタイ」に名前を変えたんだろうと思います。

イエス様を信じた私たちの場合

 ところで、もうイエス様を信じている私たちにとっては、聖書のこの個所はどんな意味があるでしょうか。

前にも話しましたが、旧約の時代には罪のゆるしのために羊などの犠牲をささげつづけなければならなかったけれど、神様であるイエス様という犠牲はたった一度ですべての人のすべての罪をゆるすことができます。
時間の中で生きている人間と違って、神様は時間に縛られないので、私たちの「イエス様を信じる前の罪」だけではなく「信じたあとにやらかした罪」もゆるすことができます。

悔い改めるというのは「向きをかえる」ということです。イエス様を知らなかった、神様と関係なく生きていた生き方から方向転換して、イエス様をとおして神様に向かって生きることを「悔い改める」というんです。
ところが私たちは、イエス様を信じて罪を悔い改めて救われたあとも、罪から完全に離れることができません。
でも、罪をおかすたびに、悔い改めなおしてバプテスマを受けなおす、なんていうことは必要ないのです。なぜかというと、イエス様を信じて悔い改めた時に、「イエス様をとおして神様に向かって生きる」という方向にもう向きを変えているからです。罪をおかすたびに、悔い改めなおしてバプテスマを受けなおす、なんていうことは必要ない。
イエス様の十字架はたった一度で私たちの罪をすべてゆるすことができる。悔い改めもバプテスマも一度だけでいい。

でもそれは、「前に悔い改めてバプテスマを受けたから、そのあとの罪も自動的にゆるされてるよね」ということではないんです。
イエス様に救われた私たちは、もう「罪びと」ではありません。けどそれでも私たちは罪をおかしてしまうし、罪があるままでは神の国=天国に入ることはできない。イエス様を信じたあとの罪も、イエス様にゆるされなければいけない。

イエス様が「わたしは罪びとを招くために来た」と言っているのは、「まだイエス様を信じていない、罪びとのままの人を招いて救うため」というだけでなく、「イエス様を信じたけれどそれでも罪をおかしてしまった人」も招いているんです。

イエス様のたとえ話で、神様のぶどう園で朝早くから働いた人も、夕方から働いた人も、同じだけ給料をもらえる、という教えがあります(マタイ20:1-16)。
先にイエス様を信じたわたしたちが、まだイエス様を信じていない人たちよりすぐれているということはない。
当時の宗教家たちが「律法を守っている私たちは救われる。ユダヤ人でも律法を守らない徴税人などは罪びとだ」と考えていたのと同じになってしまってはダメです。
「これからイエス様を信じる人にも、もうイエス様を信じた私たちにも、イエス様は必要」ということをおぼえておいてください。

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