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日本宣教の手本はパウロかも【使徒言行録17:16-34】【やさしい聖書のお話】

クイズ、というより質問

「すべてを知ることができるようになるかわりに、知ったことをほかの人に伝えることはできません。
この世界のすべてを知ることができる。超お金持ちになる方法。絶対に幸せになる生き方。恋愛が大成功する方法。どんな病気も治す方法。世界から戦争をなくす現実的な方法。歴史の真実も、未来がどうなるかも、神様のことでも天国のことでも、なんでも知ることができる。ただ、それを他の人に伝えることだけはできない」
あなたなら、どうしますか?望む?それとも望まない?

「伝えられなくてもいい。私は知りたい」という意見もあると思う。
でも、「どんなにすばらしいことを知っても、それを誰かに伝えれられなかったら意味がない」という意見の人も少なくないんじゃないかな。
特に、良いこと、素晴らしいことを知ってしまったら、人に伝えないではいられないよね。「聞いて聞いて、こんなすごい話があるんだけど」って。

ただ、「よいこと」だと思うときほど、「伝え方」を気を付けた方がいいと思うんだ。

伝え方を失敗すると

みんなは、生まれた時にはもうJリーグがあったし、サッカーワールドカップに日本代表が出るのは普通のことかもしれない。
ただぼくにとっては、サッカーにプロリーグができたのも、日本代表がワールドカップに行ったのも、日本でワールドカップが開かれたのも、ぼくが大人になってからでした。
日本にサッカーファンがすごく増えていくのも見てきた。そしてぼくのまわりのサッカーファンは、ぼくにもサッカーのすばらしさを伝えようとしたのだけど。
なんか、
「サッカーを好きじゃないのはおかしい」
「サッカーに興味がないのは遅れてる」
「いまどき野球なんか見てるの?」
みたいな感じなんだよね。テレビとかもそんな雰囲気で「日本人ならサッカー日本代表を応援するのが正しい」みたいな。
まるで、「サッカー日本代表を応援しない者は日本人にあらず」みたいな空気を作っておいて「空気読めよ」と言ってくる感じ。

サッカーが好きな人、ごめんなさい。でもぼくは本当にそう感じてしまったし、だからそんなサッカーファンのせいで、どんどんサッカーに興味がなくなりました。もともとスポーツ観戦は好きなのだけどなぁ。

「こんなに一所懸命にイエス様を伝えているのに、伝えれば伝えるほど『キリスト教の話はもういいよ』って言われるのはなぜだろう」ってこと、ないかな?
ぼくにサッカーを伝えようとした人たちはきっと「のぶおはなぜ、俺たちがサッカーを伝えれば伝えるほどサッカーを嫌いになるんだ?」って思ったんじゃないかな。

「これはよいものだから、ぜひ伝えたい、一緒に『これは素晴らしい』って思ってほしい」と思っても、もし伝え方を間違えたら逆に台無しにしてしまうことって、あるんだよ。

その点、パウロは伝えるのがすごく上手だった。
実はパウロってね、「パウロからの手紙はとても力強いけど、会ってみるとがっかりするよね」なんて言われてたんだよ。

「パウロの手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者がいるからです。
そのような者は心得ておくがよい。私たちは、離れていて書き送る手紙の言葉どおりに、一緒にいるときも同じように振る舞うのです。

コリントの信徒への手紙二10:10-11(新共同訳)

だけど使徒言行録17章では、パウロはアテネ人にすごくうまく伝えてると思うんだよ。

パウロ、アテネに殴り込み?

ギリシャのアテネ。
アジア(現在のトルコ)のタルソス。
エジプトのアレキサンドリア。
これらはローマを中心とした当時の世界で、三大「学問の都市」でした。学者や、学問を志す人たちが集まって、議論したり、教えたり教えられたりしながら、学問を発展させていました。

すべてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。

使徒言行録17:21(新共同訳)

で、アテネにやってきたパウロはタルソスの出身。学問を愛し議論の仕方をわかってる者どうしだから、パウロはたぶん「相性がいい相手」と思ったんじゃないかな。何かを伝える時って、「理論的に説明したほうが伝わりやすい人」「気持ちでぶつかっていったほうが伝わりやすい人」などいろいろいるけど、タルソス出身のパウロにとってアテネのギリシャ人たちは「自分と同じタイプ」という感じがしただろうと思う。実際、パウロの伝え方は、途中まではある程度までは作戦通りにうまくいったし。

パウロの伝え方

パウロはギリシャのアテネに着いたとき、偶像だらけなので「憤慨した」って書いてある。「憤慨」って、怒り×悲しみ×恨み×なげき、っていうくらいの感情だよ。激怒を通り越してる感じ。
なのにパウロはアテネの人たちに「あなたたちはとても信仰が深くて素晴らしい」って言ったんだ。

そうしておいてから、「ところで、あなたたちが知らない神様を私は知ってるのだけど、聞きたくない?」って。

テレビの通販番組とか、アリオで実演販売する人みたいだよね。
「あなたの包丁、切れなくて困ってませんか?実は私が持ってるこの包丁がすばらしくて」とか。
「あなたが使ってる洗剤、とてもいいものでしょうね。でも!新製品のこの洗剤のことを知ったら、ぜったいにこっちがいいって思いますよ」みたいな感じでね。
「あなたがあなたの神様を信じる心はすばらしい。でも!あなたが知らない、もっと素晴らしい神様がいるんです」って。
絶対に「なになに?」ってなるよね。「話だけでもちょっと聞いてみようか」って気になるよね。

どんなにすばらしいことを知っても、伝えられないと意味がないと思う。
そして、"聞いてもらえる伝え方"をしないと伝わらないと思う。
イエス様を伝えたい、福音を伝えたい、っていうのはぼくたち「伝える側」の都合でしかなくて、それよりも「伝えられる側」に聞きたいって思ってもらうのが大事なんだ。
で、パウロは見事に、アテネの哲学者たちにまで「聞かせてくれ」と言わせたんだ。

エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、こう言った。「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ。」

使徒言行録17:18-20(新共同訳)

キリスト教は宣伝が下手?

ぼくたちが伝えようとしてる、この福音、イエス様の救いは、間違いなく「よいもの」です。これは断言していい!
伝わりさえすれば、受け取ってもらいさえすれば、「このすばらしいものを受け取ることができてよかった」と思ってもらえるに違いない。
でもそのためには、受け取ってもらえるような伝え方をしないといけない。
じゃないと、ぼくにサッカーのすばらしさを伝えるつもりがぼくをサッカー嫌いにした人たちのようなことになってしまうからね。

今年2022年は、
フランシスコ・ザビエルが1549年に日本にキリスト教を伝えて、約470年。
プロテスタント最初の宣教師が琉球(今の沖縄)で宣教を始めたのが1846年だから170年以上。
江戸時代からのキリシタン禁止を明治政府がやめたのが1873年だから、来年でちょうど150年。
これだけ時間をかけて、たくさんの人ががんばって、でも今、日本でクリスチャンは100人中1人いるかいないかって、伝え方が下手だったんじゃないだろうか。
先輩クリスチャンたちはとてもがんばったし、命がけで信仰を守って、とてもがんばって伝えてきた。でも結果的に伝わってない。

日本マクドナルドの初代社長で、日本トイザらスの初代社長でもある藤田田(ふじた・でん)氏が「日本でキリスト教が広まっていないのは、宣伝が下手だからだ」という意味のことを言ってたのだけど、反論できない。
宣伝というと「金儲けの話じゃないんだ」と思うかもだけど、「宣伝」は「宣べ伝える(のべつたえる)」ということだからね。むしろキリスト教が一番得意じゃなきゃいけないことだよね。
(上記の藤田田氏の言葉は典拠を明示するべきことですが、ずっと前にインタビューか対談か何かを読んだものなので出典をおぼえていなくてすみません)

メジャーリーガーのダルビッシュ有が「練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘つくよ」とツィートしたのが話題になったのは、日本では「努力し続けること」が尊いものとされて、「どんな努力か」は無視されることが多かったからだと思う。
家での勉強や、会社での仕事なんかもそう。「がんばった中身や結果」よりも「何時間がんばったか」で親や会社からほめられたりする。
「あきらめなければ夢はかなう」っていうのもね、正確には「あきらめずに、夢をかなえるために必要な努力を、正しい方向に向かって続けることができれば、そうしなかった場合よりも夢をかなえられる可能性が高くなる」なんだよね。

ぼくたちクリスチャンは、イエス様から「全世界に福音を伝えなさい」と命じられている。それで伝えることをがんばってきた。でも「伝え方が悪くても伝え続ければそれでいい。結果的に伝わらなくても、伝え続けたことが大事」とはならない。
・・・実は18章でのパウロも、伝わらなくてブチ切れちゃった感じなんだけど、それはまた来週のお話。
先輩クリスチャンたちががんばったおかげで、ぼくたちにもイエス様が伝えられたことには感謝。だけどそろそろ、宣伝(のべつたえる)のやり方を考えなきゃいけない。そして実はパウロのやり方に、聖書に書かれていることに、お手本があったんだ。それは「相手にあわせて、相手が聞きたくなるような伝え方をする」ということ。

「キリスト教流」か「パウロ流」か

キリスト教は、伝えるときに「上から目線」なところがあると思う。
歴史的にも、ヨーロッパの白人クリスチャンたちは「キリスト教を知らない野蛮人たちに福音を伝えてやらなければ」という宣教してきた。植民地にしたり奴隷にしたりするのも「キリスト教を受け入れさせるため」ということで正当化した。
日本の教会もこの「上から目線」を受け継いじゃってる。「教会」とか「伝道」という言葉がもう、「教えてやろうじゃないか」「迷える者たちに道というものを伝えてやろう」ていう感じがにじみ出ちゃってる。「教会」って訳される英語のチャーチやギリシャ語のエクレシアには「教える」なんていう意味はないのにね。

まるで「先に救われた私たち」が、「まだ救われていないカワイソーな人たちに」ていう感じ。それじゃあ、なかなか聞いてもらえないよね。
イエス様はそうじゃなかったのになぁ。「朝早くに神のもとに来た者が、夕方になってから来た者よりも優遇されるということはない」って教えたし、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」とも言ったのだけど(マタイ20:1-16)。

でもパウロは、イエス様を伝えるためなら、アテネの人たちが偶像を礼拝していることまでいったん肯定した。かなり頭がやわらかい。
たぶんパウロは、主を信頼していたのだと思う。自分が伝えた後のことは主に信頼してまかせてしまう。「私は、どういうやり方でも、どういう言い方でもいいから、この人たちを主のところに連れて行きさえすればいい。そこまでできれば、あとは主がこの人たちを救ってくださる」という絶対の信頼があったんだろう。

実はね。ぼくが教会学校リーダーになったばかりのころは、「今しかない!ぼくがこの子たちと関りを持っている今のうちに、この子が救われるためにがんばらなきゃ」ていう考え方をしてたんだ。
でも、人がいつ救われるかについては、その人のことを生まれる前からあいしている主がちゃんと考えてくれてるんだよね。一人一人のために主が用意しているご計画がある。なのに「今しかない」って決めつけてた俺ってなんだったんだ、って思うよ。思い出すだけでも恥ずかしいというか、あの頃の自分を叱りつけてやりたい

ぼくたちが、誰かを救うのではない。
ぼくたちが、誰かを導くのではない。
ぼくたちは、主を宣伝(のべつたえる)する。
主が、その人を救ってくださる。
主が、その人を導いてくださる。
主が、その人の神となり、その人をご自身の民としてくださる。
それがパウロ流だし、聖書流ということなんじゃないかな。

動画版はこちら

この内容は、教会学校動画の原稿に加筆して再構成したものです。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。

動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、このページと動画の内容は担当者個人の責任によるものであり、千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教をどんな意味でも代表したり代弁したりするものではありません。

動画は↓のリンクからごらんいただくことができます。


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