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信仰について-キリスト(その1)【バプテスト初歩教理問答書】

今回から「Ⅱ信仰について」の「(3)キリスト」の章にはいります。
長いのでまずは第35問-第39問を。

今回はもしかしたら(いつも以上に)各方面からお叱りを受けるかもしれませんが、あくまで私個人の理解ですので。


Ⅱ信仰について (3)キリスト -その1

第35問、神の製造物責任

第35問 神さまは、人間をほろびるままにしておかれましたか。
答 み子キリストによって、救いの道を備えられました。
エペ1:4、ヘブ9:11,12

『バプテスト初歩教理問答書』

エペソ人への手紙1:4
すなわち神は世界のもといが据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。
ヘブル人への手紙9:11-12
しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界のものでない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、
また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠のあがないを成し遂げられました。

『聖書 新改訳2017』

製造物責任法、いわゆるPL法というのものがあります。ざっくりいえば「メーカーは売ったあとあとまで、製品に欠陥があれば責任があるよ」という法律ですね。
これを援用してなのかこじつけてなのか、「子供に問題があるのは親の製造責任がー」みたいな言い方をする人もいます。だったら、神が人を創造したということは、人という製品について神は製造物責任があるだろということにもなりますが。
神のほうでは、製造者責任を負う気あるわけです。

聞け、ヤコブの家よ
またイスラエルの家のすべての残りの者よ
母の胎を出た時から私に担われている者たちよ
腹を出た時から私に運ばれている者たちよ。

あなたがたが年老いるまで、私は神。
あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。
私が造った。私が担おう。
私が背負って、救い出そう。

『聖書 聖書協会共同訳』イザヤ書46:3-4

で、人が罪のために堕落して、本来の姿である「神と共に生きる」を放棄してしまっている。そんな人に対するセーフティネットがキリストだというのが聖書の論理ですね。

第36問、予定説か否か

第36問 キリストによって救われるのは、だれですか。
答 父なる神さまが選んで、キリストにお与えになったすべての人々です。
ロマ3:21,22

『バプテスト初歩教理問答書』

「キリスト教では、誰が救われるかは神がすでに決めている」ということを、コメンテーターと呼ばれる人がメディアで語っているのをときどき見ます。キリスト教徒が人口の1%未満の日本で、キリスト教のことよく知ってくれてるなと思います。
で、第36問の問答はまさに、「誰が救われるかは神が決めている」説、いわゆる予定説の根拠とされる個所のひとつです。第35問の聖書箇所もそうです。

ただこれは、キリスト教の中にはそういう考えの宗派もあるというだけなんですね。予定説を正当な教義とする宗派では、予定説は正統な教義である、というだけ。
予定説に対する反論もあるわけで。そのあたり今後の問答に出てくるかな。

私はざっくり言えば、第35問で書いたとおり、人間に対して製造物責任を感じている神が「この者は救う予定。この者は救わない予定」などということはするわけないだろ、と思っています。

第37問、自説にあう箇所だけ読むと間違う

第37問 キリストは、選ばれたご自分の民のために、何をなさいましたか。
答 いましめをすべて守り、その人々の罪のために、罰をお引き受けになりました。
Ⅰヨハネ2:2

『バプテスト初歩教理問答書』

ヨハネの手紙第一2:2
この方こそ、私たちの罪のための、いあ、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のためのなだめのささげ物です。

『聖書 新改訳2017』

問は「選ばれたご自分の民のため」と予定説視点だけど、聖書箇所は「私たちの罪だけでなく、世全体の罪のため」という個所が選ばれています。
聖書は、「その箇所だけ見たら、こういうこと」という記述が別の個所では逆だったりすることは普通にあるから、聖書全体から考えないといけない。救いについてもこうして「選ばれた」人だけと読める個所もあれば「世の全体」の人と読める個所もあるから難しい。

第38問、最大の難問か

第38問 キリストはどういうお方ですか。
答 神のみ子でありながら人間となられたお方です。
ヨハ1:14

『バプテスト初歩教理問答書』

「キリストはどういうお方ですか」という問いには、どれほど多くの答えがあるだろう。
シモン・ペトロはキリストを「メシア」と呼んだ。
トマスは「私の主、私の神」と呼んだ。

キリスト自身がキリストはどういうお方だと言ってるかというと、ヨハネ福音書だけでも
「キリストを遣わした父の御心を行う方」(ヨハネ福5:30)
「天からくだってきたパン」「命のパン」(ヨハネ福6:41,48.51)
「世の光」(ヨハネ福8:12,9:5)
「羊の門」「門」(ヨハネ福10:7,9)
「良い羊飼い」(ヨハネ福10:11,14)
「復活であり命」(ヨハネ福11:25)
「世を救うために来た方」(ヨハネ福12:47)
「道で、真理で、命」(ヨハネ福14:6)
「まことのぶどうの木」(ヨハネ福15:1)
などなどなどなど。
共観福音書にも
「宣教するために来られたお方」(マルコ1:38)
「給仕する者」(ルカ22:27)
など。
洗礼者ヨハネの証言によれば、
「聖霊によるバプテスマを授けるお方」(ヨハネ福1:33)
「神の子」(ヨハネ福1:34)

以上は「わたしは」「である」で検索した結果の一部。
他にもヘブル書やヨハネ黙示録でキリストは何者だと言ってるか。旧約でキリストは何者だと預言されているか。キリがないほどだと思う。

そうしたキリストの数多ある属性の中から「神のみ子でありながら人間となられたお方」て、重要度そこまで高くないような。
いや、このあと「イエス」が「神キリスト」であるという問答になっていく前フリだというのはわかるんだけど。

じゃあ、私なら?ひとつだけ言うなら、こう。
 第 キリストはどういうお方ですか。
 答 永遠の契約の血による羊の大牧者で、私たちの主です
 ヘブ13:2

第39問、処女降誕を信じるかどうか問題

第39問 神のみ子が、どのようにして人間になられましたか。
答 聖霊の力によって、きよい娘マリヤから生まれました。
ルカ1:27,31,35,42*

『バプテスト初歩教理問答書』

イエスが処女マリアから生まれたという、非科学的で、非合理的で、非常識な聖書の記述をどう読むかについては、たぶん、次の3パターンになると思う。

  1. 処女降誕は信じないし、聖書やキリスト教はファンタジー。

  2. 処女降誕を書いてあるとおりに信じる。

  3. 処女降誕は何か象徴的な記述なのであって、合理的な説明を積み上げて解釈するべきもの。文字通りに受け取るのは間違い。

1は、キリスト教を信じない人たち。
2は、キリスト教を信じるし聖書も信じる人たち。
3は、キリスト教を信じるが聖書は(部分的にしか)信じない人たち。

で、私は2なのだけど、3の人たちからは「書いてある通りにしか読めない、愚かで、浅くて、熱心さのない未熟者」扱いされます。私に言わせれば3は、神を「人間の合理性」に従わせる人たちなのだけど。
そして3の人たちは「2の人たちはなぜ処女降誕にこだわるのか」という言い方をします。でも私は、「マリアは処女懐胎したのか」にはこだわっていません。「神にはマリアを処女懐胎させることができる」にこだわてってるんです。

ていうかこれ、もう別の宗教だよね。
私が信仰しているのは「全能で、処女降誕も死者の復活も可能な神」で、
彼らが信仰しているのは「処女降誕も死者の復活もできない神」で、
どちらも一神教ならそれはもう別の宗教でしょ。

感想には個人差があります。

ところで「2」について、神はマリアの卵子をもちいたという理解があるようです。つまり「マリアの卵子を受精させたのは、人なのか神なのか」という論点で降誕を考える。
でもこれ、ヘレニズムの影響じゃないかなと。ギリシャ神話の神々が人間のおとめと「交わって」妊娠させたという発想の影響を受けてるんじゃないかなって。
そうでなくても、じゃあマリアの卵子だけ用いたとするとイエスはマリアのクローンなのかということになるよね。

私は、神はマリアの卵子ももちいていないと思う。「光あれ」の言葉から始まってこの世界の物質を創造した神が、イエスが生まれるためにはマリアの遺伝子が必要だっただろうか。
誰の遺伝子も受け継いでいない一人の人アダムによってこの世に罪が入ったように、誰の遺伝子も受け継いでいない一人の人(であり神である)イエスによって命が世にきた、というのが救いのあらすじじゃないかと思う。

イエスがマリアの遺伝子を受け継いでいる(それどころか肉体的にはクローン)と考えると、原罪の教義からは「無原罪の御宿り」などが必要になる。プロテスタントも、マリアの無原罪を否定しても「じゃあイエスに原罪は?」に明確な答えを出せていないと思う。
あと、カトリックではマリアは生涯、男を知らなかったという解釈があるそうだけど、イエスが肉体的にはマリアのクローンだとするなら、そういう解釈は必要になるよね。マリアがイエスの誕生後に人間ヨセフとの間に子をもうけたら、その子はイエスとくらべて「半神」ということになってしまいそうだもの。このあたり、カトリックを批判するプロテスタントも答えは持ってないのでは。

処女懐胎を伝えるマタイ福音書もルカ福音書も、「聖霊によって」ということしか書いていない。マリアの卵子が聖霊によって受精したのではなく、マリアの胎が聖霊によってみごもったのだと思う。

次回は

次回も「信仰について」の章の「(3)キリスト」から。
第40問~第46問、キリストは予言者、祭司、王であることについて読みます。


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