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マリア、少年イエスを見失う【ルカ2:40-52】【やさしい聖書のお話】

2023年1月1日、元日の日曜日の聖書のお話です。

あけましておめでとうございます。

令和5年、2023年、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

「一休さん」(いっきゅうさん)というアニメを知っていますか。一休という小坊主が知恵を使って、大人を言い負かしたり、問題を解決したり、ときにはいたずらをしたりする、昭和のアニメです。

アニメ「一休さん」テレビ朝日系。東映動画。

この一休さん、実在した一休禅師こと一休宗純(いっきゅうそうじゅん)というお坊さんがモデルになっているのですが、この人も冗談や皮肉をいうところがあった。仏教には、面白い話をしてみんなを楽しませながらいつの間にか仏様のことを教えるというのが得意なお坊さんがよくいます。

一休さんのモデルとなった一休宗純。
(重要文化財「紙本淡彩一休和尚像」)

一休禅師はある年のお正月に、みんなが「おめでとう」とあいさつしているところで、こんな狂歌を詠んだんですね。狂歌というのは、五七五七七の短歌のなかでも冗談とか風刺を扱うものなのだけど、一休禅師はこういいました。

正月は冥途の旅の一里塚。めでたくもあり、めでたくもなし。
(しょうがつは めいどのたびの いちりづか
    めでたくもあり めでたくもなし)

冥途(めいど)というのは、あの世のことです。
昔は誕生日に年をとるのではなくて、お正月にみんなひとつずつ年をとる数え方でした。だからこの狂歌は「お正月というのは、めでたいかもしれない。でも、年をとったということはあの世への旅が一歩進んだ、死ぬ時が近づいたということ。だから、めでたくないともいえるよね」という意味です。
「人間というのはいつか必ず死ぬのだから、お正月だといって浮かれていないで、一日一日を大切にしなきゃいけませんよ」ということを教えたかったんじゃないかな。

でも聖書はちょっと違うんだね。
まず「人間はいつか必ず死ぬ」とは聖書は言っていない。イエス様が王様として再び来られた時には、その時すでに死んでいる人は陰府というところから出てきて、天国と呼ばれる神の国に入れてもらえる人と、地獄と呼ばれる永遠の炎に投げ込まれる人とに裁かれる。その時に生きている人も同じで、イエス様が来た時に生きている人もそのまま天国に行く人と地獄に行く人に裁かれる。

じゃあイエス様はいつ来る?
聖書の一番最後に「然り、わたしはすぐに来る」と書いてあります。
「然り(しかり)」というのは、「そうです、これは本当です」という意味です。

一休さんは、正月は死んであの世へ行く旅の一歩だ、と教えた。
でもイエス様を信じるぼくたちにとっては、新しい一年が始まるごとに、新しい一日が始まるごとに、イエス様が再び来て、イエス様が王様である新しい世界が始まるその時が近づくということなんだ。
この「来る」というのは、もとのギリシャ語では、未来のことではなく現在のことをいう言い方をしているんだ。つまり、いつか未来に「来る」が始まるんじゃなくて、もう「来る」が始まっている感じの言葉が使われている。まだ到着してないけどもう出発してる感じかな。
「然り、わたしはすぐに来る」といっている主イエスに、
「アーメン、主イエスよ、来てください」と答えてこの一年も生きていこう。

聖書のお話

教会学校の今日の聖書のお話は、イエス様の子供時代のエピソードです。
ルカは「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」と伝えています。ルカはいろいろと取材してこの福音書を書いた様子がうかがえるのだけど、きっとこれはマリアに聞いたんだろうね。

父ヨセフの家にいるイエス

ところで、ジョン・エヴァレット・ミレー(「落穂拾い」の作者ジャン=フランソワ・ミレーとは別人)が、少年時代のイエス様を描いています。

ジョン・エヴァレット・ミレイ作「両親の家のキリスト」1849-1850年制作、イギリス・テートギャラリー所蔵

少年時代のイエス様が、大工ヨセフの作業場にいる場面です。手のひらをケガしてしまっているのは、大人になったイエス様が十字架につけられることを示しています。
そのイエス様に水をはこんでいる少年は洗礼者ヨハネで、イエス様がヨハネからバプテスマを受けることを示している。
奥の壁のハシゴに鳩がいますが、これは聖霊がイエス様とともにいることを示していて、少年時代のイエス様が「神の恵みに包まれていた」ことを表しています。
この作品の題名は「両親の家のキリスト」です。

父の家にいるキリスト

さて、イエス様が12歳になると、両親はイエスをエルサレムに連れて行きました。律法で、イスラエルの男は年に三度の祭りで主の前に出なければならないと決められているのをヨセフも守って、過ぎ越し祭には毎年エルサレムに行っていたんです。
イスラエルでは13歳からは一人前に律法を守らなければならないとされていて、その前の年12歳のときに練習のためにヨセフはイエスを過ぎ越し祭に連れて行ったんです。

ところが祭りから帰る時にイエスが迷子になった。というか、エルサレムから一日分を歩いたときにやっと、両親はイエスがいないことに気付いたんだ。ナザレから一緒にエルサレムに来た親戚や仲間たちと一緒にいると思ってたんだって。ちょっとのんびりしすぎな気もするけど、そこからあわてて、イエスを探しながらエルサレムに戻っていきます。でも交番もないし迷子センターもない。やっとイエスを見つけたのは三日後のことだった。

マリアがイエスを三日間見失ったこのできごとは、「聖母マリアの七つの悲しみ」のひとつに数えられています。
このできごとが、イエス様が十字架で死んで三日目に復活するまで、マリアがイエスを見失っていたことを思わせるからでしょう。
 
両親がイエスを見つけたのは神殿の境内でした。そこで少年イエスは、聖書の学者たちと議論していたんだ。「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」という様子だった。この学者たちは、この少年が大人になったときにまたこの神殿で議論することになるとは思わなかっただろうね。

ウィリアム・ホルマン・ハント「神殿で見いだされた主キリスト」1854-1860 イギリス・バーミンガム美術館

イエスを見つけたマリアは当然のように、「なぜこんなことをしたの?お父さんも私も心配してあなたを探し回ったのに」と言う。
するとイエスはこう言った。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

ヨセフとマリアには、イエスが何を言ってるのかわからなかった。ただマリアは、これは忘れてはいけないできごとだと思って、心に納めておきました。それをルカはインタビューしたんだろうね。

聖書全体を見渡せるぼくたちには、イエス様が何を言いたかったかわかるよね。神の子であるイエス様は、父なる神を礼拝する神殿を父の家と呼んでたんだって。
ミレーが描いた絵は「両親の家のキリスト」と呼ばれています。
でもイエス様にとっては、神である主を礼拝する神殿が「父の家」だったんだ。

その後イエス様は「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」と書かれています。ただナザレの人たちは、イエスを愛したからこそ、この子が「神の人」であることがわからなくなってしまった。イエス様が身近過ぎてわからなかったんだろうか。

動画版のご案内

このnoteの内容は、2023年1月1日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。

動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。

新年のご挨拶

聖書のお話


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