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子によって父が栄光を受ける【ルカ5:17-26】【やさしい聖書のお話】

2023年1月15日の聖書のお話です。

ファリサイ派の人々

今日の場面で、イエス様がある家で教えているとき、ファリサイ派の人々と律法の教師たちもそこに座っていました(5:17)。

旧約聖書の時代には、祭司たち、神殿で働くプロが、律法を教える教師でした(マラキ2:7)。
旧約聖書と新約聖書のあいだの時代になると、祭司のようなプロの宗教家ではない、「聖書をよく勉強し、信仰が篤い市民」も人々を教えるようになった。この人々がファリサイ派です。

バプテスト教会も、プロの牧師ではなく信者たちが集まって教会をつくり、互いに教えることから始まりました。
ファリサイ派は普通に仕事もしていて、パウロもファリサイ派だけどテントを作る職人だった。バプテストも地主、職人、貿易商などをしながら教会で説教をしていた。だからファリサイ派というのはぼくたちバプテストの大先輩といえるかも。

ぼくは子供の頃から教会学校に行ってて、ファリサイ派はイエス様の敵、悪役と思ってた。
でも福音書をよく読むと、この人たちも神である主を愛していたことがよくわかるんだ。主の言葉である聖書の言葉をとても大切にして、そこに書かれている主の命令を一所懸命に守っていた人たちなんだ。
ただ、一所懸命すぎていろいろとズレていた。イエス様も「ファリサイ派が教えることを守りなさい。でもファリサイ派のおこないは見ならってはいけない」と言ってる。

「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見ならってはならない。言うだけで、実行しないからである。」

マタイ23:2-3(新共同訳)

ファリサイ派が「聖書にこう書いてある」と教えるのは正しいけど、聖書の言葉を実行する、実践するところがイエス様と考え方が違っていたんだ。

屋根をぶち抜け!

さて、ある男たちが病人をベッドごと運んできたのだけど、家の中は病気を治してほしくて集まってる人でいっぱいで、イエス様に近づけない。
そこで男たちは屋根に上って、屋根に穴をあけて、病人をベッドごとロープでイエス様の前におろした。
イエス様は、その病人よりも彼を連れてきた男たちの「イエス様なら」という信仰を見て、病人にこう言った。
「人よ、あなたの罪は赦された」

するとファリサイ派の人たちは心の中でこう考えた。「神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」

冒涜(ぼうとく)というのは、神聖なものや崇高なものをけがすことだ。価値があるものの価値を認めないだけじゃなく、価値をそこない、価値を失わせることだ。
たとえば「命というものは神聖なものだ」と考える人にとって、科学技術によって命を生み出すとことは「命に対する冒涜」になる。

ファリサイ派の人たちが「これは神を冒涜することだ」と言ったのは、神である主をそれだけ大切に思っていたからなんだ。誰にもけがされたくないと思っていたということなんだ。
そして、神にしかできない「罪をゆるす」ということを、人間であるイエスがやったのは、自分は神だと言ったのと同じだし、それは神である主をけがすことだとしか思えなかった。

ファリサイ派は、神である主を愛するからこそ、イエスがゆるせなかったんだ。

するとイエス様は、彼らの心の中を見抜いてこう言った。「わたしが地上で罪を赦す資格があることを、あなたがたが神と呼ぶ方と同じ権威が私にあることを、あなたたちにもわかるようにしてあげよう」
そして病人にこう命令した。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」
すると、ベッドごと運んでもらわなきゃいけないほど動けなかった病人が「すぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った」。

父の栄光

これを見た人々のリアクションはこう書かれています。
「人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた」
ここが大事。
治してもらった人も、その場にいた人々も、イエス様を賛美するのではなく神を賛美した。「イエス先生すげえ!」じゃなくて「神様すげえ!」てリアクションしたんだ(この人たちはまだ、イエス様が神様だってわかってない)。

イエス様は、父なる神は、御子イエス様によって栄光を受けるが栄光をお受けになると教えた。

「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。

ヨハネによる福音書14:13(新共同訳)

今日の場面で、イエス様の奇跡によって人々が神を賛美したことは、まさに子によって父が栄光を受けたできごとだったんだ。
そしてイエス様は、ぼくたちがイエス様の弟子になることで、父が栄光を受けると教えた。

「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」

ヨハネによる福音書15:8(新共同訳)

だからぼくたちも、あの病人たちのように神を賛美しよう。
父に栄光!

子の栄光

父なる神の栄光は子にある一方、子なる神キリストの栄光は十字架にある。
イエス様は自分の栄光は求めない。父から栄光を受けるからって。

イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。」

ヨハネによる福音書8:54(新共同訳)

そして最後の晩餐のとき、イエス様は父に向かって、父から栄光を受けるときがきましたと言った。それが十字架のできごとなんだ。

ヨハネによる福音書17:1
イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。

同17:5
父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。

同17:24
父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。

いずれも新共同訳

栄光というのは、輝かしいほどの誉れということ。父なる神様を、神様とひとつであるイエス様を、心から賛美しよう。

動画版のご案内

このnoteの内容は、2023年1月15日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。



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