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食べて飲んで神を喜ぶ【ネヘミヤ記7-8章】【やさしい聖書のお話】

noteへのアップが止まってたので再開します。
今回は2022年11月13日の聖書のお話から。

詠唱者と門衛

エルサレムの都を囲む城壁の修理が終わったとき、ネヘミヤは、門衛と詠唱者とレビ人を任務につけました。

詠唱者(歌うたい)

詠唱者というのは、ほかの訳では「歌うたい」とも訳されています。神殿で賛美する聖歌隊でしょう。

多くの文化文明で、音楽は神々にささげられるものでした。
音楽で神々を喜ばせる。
音楽とともに舞い、ダンスで神々を喜ばせる。
日本でも、神社のお祭りでは神楽、神様を楽しませると書くけれど、歌や舞いが行われます。神様の前に歌舞音曲をささげることを「神遊び」とも言いますが、これも神様を喜ばせるということなのでしょう。

映画『君の名は。』より、巫女舞の場面。
新海誠。「君の名は。」製作委員会。コミックス・ウェーブ・フィルム。東宝。

旧約聖書では、モーセのお姉さんのミリアムは、歌って踊れる女預言者で聖歌隊リーダーでした。
その後、イスラエル12部族のうちレビ族が神職として主に仕えることが定められました。そしてダビデの時代に、レビ族の中からアサフ、へマン、エドトンが、主の前で歌う詠唱者の任務に就けられました(歴代誌上6:16)。

アサフたちと彼らの子孫は、楽器を弾きながら預言しました(歴代誌上25:1)。アサフが作詞した讃美歌が、詩編に12曲入っています。
このアサフの子孫が、ネヘミヤの時代の詠唱者、歌うたいです。

門衛

門衛は、レビ族のコラの一族とメラリの一族が勤めていたので、ネヘミヤの時代もその子孫でしょう。

ただ、コラの子孫は門衛なのに、詩編にはコラの子孫が作った讃美歌が10曲も入っています。
詩編を含めて聖書は神の言葉だと信じるぼくたちにとって、詩編の歌を作った詠唱者、歌うたいが預言者でもあるというのは、とても納得できると思います。モーセやイザヤなどの預言者が、神様から示されたことを言葉で伝えたように、コラの子孫やアサフは神様から示されたことを歌で伝えたということです。

とはいえ、門衛は城門を守るのが本職です。
どんなに頑丈な城壁でも、門が必ず弱点になります。城壁は人を通さないように作られるものなのに、城門は人が通るためにあるからね。頑丈な城壁の、一番の弱点を守るのが門衛なんです。
ただ、イスラエルを守るのは神である主です。「見よ、イスラエルを守る方は、まどろみもせず、眠ることもない」のです(詩編121:4協会共同訳)。
主に仕えるレビ人、その中でも預言者であり歌うたいでもあるコラたちが城壁の門を守る門衛をつとめるのは、主がそこを守るということです。

聖歌隊の戦闘力

バビロン捕囚より前、ヨシャファト王の時代のこと。
アンモン人などの大軍がユダ王国に攻めてきたとき、アサフの子孫に主の霊がくだって「主はあなたたちにこう言われる、この大軍を前にしても恐れるな」と告げました。

そしてなんと!

ユダ王国の軍隊の先頭を、コラの子孫など聖歌隊が進んで敵に立ち向かったのです。彼らが喜びと賛美を歌うと敵の大軍は負けてしまいました(歴代誌下20:22)。

主が、イスラエルを守る。だから、主を賛美する聖歌隊が門衛なのでしょう。「剣を取るものは剣で滅びる」をかかげて自衛隊の存在や米軍基地、防衛予算に反対する人たちは、「もしどこかの国の軍隊が日本に攻めてきたら、私たちが信仰を持って最前線に立ち、賛美で日本のみんなを守ります」という覚悟はあるのでしょうか。それとも歴代誌を読んだことがないのかなぁ。

食べて飲んで喜び祝おう

エルサレム神殿が再び建てられた。
都の城壁も再び建てられた。
必要な役割の人々もそろい、任務に就いた。
そうして迎えた第七の月つまり正月のついたち。ユダの民はエルサレムの都の広場に集合しました。「聞いて理解することのできる年齢ならみんな」と書いてあるから、未成年も集まっていたと思う。

そこに、エズラ記でがんばったあの祭司エズラが、モーセの律法の書の巻き物を持って登場し、読んで聞かせました。
夜明けから読み始めて、お昼までかかったけれど、全員が立ち上がって聞いていました。「いや、そんなに立ちっぱなしでいられたはずはない」という読み方をするクリスチャンもいますが、むしろ座っていられなかっただろうなと思います。

読み終わったエズラが主をほめたたえると、民はみな両手を挙げて「アーメン!アーメン」「その通りです。主が律法で命じたとおりにします」と声を上げ、ひざまずいて主を礼拝しました。
聖書が朗読されて、そして「そのとおりです」と応えることが礼拝です。

そのあと、朗読された律法が何を言っているのか説教されたので、人々はその朗読を理解したと書かれています。

それからネヘミヤたちは民に言いました。「今日という日は、あなたたちの神である主にささげられた聖なる喜びの日だから嘆いたり泣いてはならない」
そう言われた時、民はみな律法を聞いて泣いていたんです。でもそれは「律法ってそんな厳しいのか」と嘆いて泣いたのではなく、主の律法を生きることができる喜びの涙でしょう。

イエス様の時代には、宗教指導者以外の普通の人たちにとって、律法を守って暮らすのはカンタンではありませんでした。それで宗教家たちは、律法を守れない庶民を「地の民」と呼んでさげすんでいた。
使徒たちも「自分たちも先祖も苦労したのに、異邦人にも同じ苦労をさせるのは主の御心ではない」と言って、異邦人クリスチャンは偶像礼拝だけ気を付ければいい、安息日は守らなくていいし割礼もしなくていい、と決めたくらいです。
でもモーセの時代には、そしてエズラやネヘミヤの時代には、みんなが律法を喜び、律法を守って生きていたんですよね。これはいったい何が違うのだろうかと思ってしまいます。

この礼拝のあと、ネヘミヤたちは民に言いました。「今日はごちそうを食べて、甘いものを飲みなさい。そうした準備がない人には分けてあげて。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源なのだから」
それで民はその日は食べたり飲んだりして、貧しい人には喜んで分け与えて、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したから、と書かれています。
「今日の礼拝で語られたことがわかった」というのが、うれしくてしかたない、って感じだよね。日曜日の礼拝が終わったとき「教えられたことを理解したので、大いに喜び祝おう」って気持ちになってる?

「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(8:10)
源(みなもと)という言葉は「水のもと」つまり水源のことです。水が湧き出しているところ、そこから水が流れて行って川になる最初のスタート地点です。ネヘミヤは「あなたたちの力が流れ出てくるそのスタート地点は、主を喜び祝うことだ」と教えたんだ。だから、主を喜び祝おう。主を礼拝することを喜び祝おう。聖書の言葉を喜び祝おう。

動画版のご案内

このnoteの内容は、2022年11月13日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。

動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。
また、このnoteの内容は完全に個人のものです。


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