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山上の説教(1)幸いな人々【クリスチャンは聖書をこう読んでいる #15】テキスト版

布忠がお届けする「でもクリ×聖書」です。
「聖書にはこんなことが書いてあって、それをクリスチャンはこういうふうに読んでるんだよ」ということを語っています。
いちクリスチャンの読み方なので、「こういうクリスチャンもいるんだな」くらいに、気楽に聴いてください。
Youtubeに動画版もあげています。

山上の説教

イエスが病気を癒し、悪霊を追い出すというので、悪く言えばそうしたご利益にすがろうとしてシリア属州全域からも人々が集まってきました。

そうした人々の中には、ご利益よりもイエスの教えを聞こうとする人たちも現れました。
そこでイエスは山に登ります。登山というのではなく広い場所を求めたようで、イエスが腰を下ろした周囲に群衆が集まったところで、「山上の説教」と呼ばれるイエスの教えが始まります。

ここに書かれていることを一度の説法で語ったというよりは、折にふれてイエスが人々を教えたことをマタイがまとめて記したものでしょう。(聖書というものは、ものごとを時系列順に記録したものではありません)

今回は、山上の説教の最初の、九つの幸いについてです。数え方によっては「八つの幸い」とも呼ばれます。
「こういう人たちはなんて幸せなんだ。だってこうなんだから」というフォーマットでイエスが教えていきますが、どれも、普通に考えたら「どこが幸せなんだ」というものが多いです。

心の貧しい者

心の貧しい者は幸いです。
天の御国はその人たちのものだからです。(5章3節)

「ボロは着てても心は錦」みたいに、経済的に貧しくても心が豊かなら、というならわからなくもないです。
ただユダヤでは、豊かさや健康は神からの恵みで、貧しさ、病気、障碍などは本人か先祖が罪を犯したために神罰を受けているのだと考えられていました。
ところがイエスは、カネがあるかどうかに関係なく「心の貧しい者」こそが幸いだというんですね。

これは「心が満たされていないという悲しみ」をかかえている人、ということじゃないかなと。誰からも愛されてない、必要とされていない、周りに人がいても孤独を感じてしまう、というような。
でも、神ヤハウェがあなたを愛している。神は愛、God is Love。今この世で愛されることに飢えているあなたは、天国=神の国で、人からの愛とは比べ物にならない愛で愛される、そういうことなんだろうなと思うんです。

悲しむ者

悲しむ者は幸いです。
その人たちは慰められるからです。(5章4節)

そんなこと言われても、「慰められる必要がないほど、悲しみとは無縁」のほうがいいじゃないか、って思いますよね。
でもそれは、ぼくたちが知ってる「慰め」というのが、ぼくたちが知ってる「悲しみ」と釣り合わないからだと思うんですよ。
長く病気に苦しんでるとき、どんなに慰められても、病気の苦しみと釣り合わないじゃないですか。家族を失ったとき、どんなに慰められても、どうにもならないじゃないですか。

でも神であるキリストが「悲しんでる人は、悲しんでいない人よりも幸いなんだ!慰められるのだから!」と宣言しているということは、ぼくたちがまだ知らないとんでもなくすばらしい慰めが約束されたということだと思うんです。

柔和な者

柔和な者は幸いです。
その人たちは地を受け継ぐからです。(5章5節)

柔和というのは、やさしくておだやかな性格ということですね。現実にはそういう人はだいたい損しますが、でもそうして損をしてきた柔和な人がとんでもないものを相続するんだよと。

「地を受け継ぐ」は、キリスト教徒による世界征服という話ではないです。

聖書は、イエスが王だと言っています。King of Kingsです。王の王つまり、「民の上に立つ王たち、の上に立つ王」です。世界の終末のあと、新しい世界をキリストが治めるのだと聖書は言ってるんですが、そのときキリストに従う者たちは、王であるキリストのもとで、キリストとともに治める者となる、と解釈できます。
これはキリスト教でも解釈がわかれるところだと思うのだけど、「王であるキリストとともにある者となる」ということではあるのだろうと思ってます。

義に飢え渇く者

義に飢え渇く者は幸いです。
その人たちは満ち足りるからです。(5章6節)

「義」って何のこと?というのがありますが、「正義が行われないために、苦しめられいる人」が満ち足りるというなら、正義が行われるようになるという意味ですね。
王であるキリストが正しい裁きをするから、ということです。だからこういうふうにも書いてあります。

愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。
「復讐はわたしのもの。
わたしが報復する。」
(ローマ人への手紙12章19節)

ヤハウェは絶対的に正しい裁きを必ず行うから、自分で復讐する必要もなくなるのです。
聖書では「正しさ」の基準は、常に、絶対的に、ヤハウェです。人が作った法や、感情論などではありません。ちなみに聖書では、人権も民主主義も何もないです。

「だったらお前は、神が殺せと言ったら人を殺すのかよ」と、子供の頃に友達から言われたことがあります。
こういうのって、女子から「先生が言ったでしょ」って言われた男子が「じゃあ先生が言ったら何でもするのかよ。先生が万引きしろって言ったらするのか?」と言い返すみたいな?
でも男子だって、先生が「万引きしろ」っていうわけがないのはわかってますよね。「神が殺せと言ったら殺すのか」という質問も同じだと思います。

憐れみ深い者

あわれみ深い者は幸いです。
その人たちはあわれみを受けるからです。(5章7節)

「あわれみ」というと、上から目線で「かわいそうに思う」というニュアンスを強く感じるみたいですね。災害の被災者に同情の心を示すと「あわれまないでくれ!」ということになったりする。とてもプライドを傷つけてしまうらしい。
でも「あわれみ」の根本は「愛」なんだと思うんです。だからこの言葉は「他者に愛をそそぐ人は、愛を受ける」という約束なんだと思う。

心のきよい者

心のきよい者は幸いです。
その人たちは神を見るからです。(5章8節)

きよい、ということでは神の清さは、もし人が神を見たなら死んでしまうというほどです。罪深い人間は、清すぎる神を耐えられないというのですね。

「あなた(モーセ)はわたし’(主)の顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト記33章20節)

あのモーセでさえ、神を見るほどは清くない。
神であるヤハウェの基準で「清い」とされるような人なら、神を見ることができる、とイエスは言い切っているのだけど、もしかしたらこれは「神を見ることができるほど心のきよい人などいない」という反語表現かも。

ただですね、これは旧約時代の話なわけです。

旧約時代には、人はなんとか清くなろうと、神に対して罪をつぐなうために動物の命をささげていました。
といっても、動物の命を軽んじたからいけにえにしたわけじゃないです。だって、もし動物の命が軽いものなら、そんな軽いもので神に対して罪をつぐなうことはできないから。生き物の命が価値ある尊いものだからこそ、いけにえとすることができる。生き物の尊い命をいけにえとしてでも人を救いたくて、すべての命の創造者であるヤハウェが動物をいけにえとすることをゆるしていたわけです。
そうはいっても、ヤハウェが特別な存在として創造した人間の命をあがなうためには、動物の命では足りな過ぎる。それで旧約時代には、祭司はキリがないほどいけにえを捧げ続けなければならなかったほどです。

けれど、神の小羊と呼ばれるキリストが十字架という祭壇で人の罪をあがなうささげものとして命を取られる。
神自身であるキリストがいけにえとなったことで、このたった一度の十字架のできごとで、すべての人類のすべての罪があがなわれて、清くされる。イエスの十字架刑が自分のためだったと信じるだけで、心が清められ、神を見ることができる者となるのです。

平和をつくる者

平和をつくる者は幸いです。
その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(5章9節)

これは説明不要?
でもキリスト教徒は「平和の作り方」を間違え続けてきました。世界史を見ても、キリスト教徒というのは「戦争して征服してしまえば平和は作れる」とでも考えていたかのようです。

今もアメリカでは「原爆投下は戦争を終わらせるために、つまり平和をつくるために、正しいことだった」と考える人が多いそうですね。

大航海時代には「キリストを知らない野蛮な異教徒は、征服して力づくでキリスト教徒にしてあげなければ」と、宣教師が布教にいってもしキリストに帰依しないなら軍隊がやってくるというコンビネーションで植民地化したり滅ぼしたりしました。

日本ではキリシタンが激しい弾圧を受けましたが、でもキリスト教国のやりくちを、考えれば日本がキリスト教を禁教にして宣教師たちを追放し鎖国したのは正解だったと認めざるをえないところもあります。

現代でも、米国や韓国では軍隊に従軍牧師がいます。

日本のクリスチャンが「軍備増強反対!自衛隊も米軍基地もいらない」と言うのを見るたびに、「日本が戦争しなかったこの70余年、キリスト教徒はどれだけ戦争してきたんだ」と思わずにいられなくて、かなり複雑な思いです。

義のために迫害されている者

義のために迫害されている者は幸いです。
天の御国はその人たちのものだからです。(5章10)

4つ目とかぶってるようですが、さっきは「義を求めている者」で、こんどは「義を手にした者」という感じですね。で、迫害されている者は幸いだと。
これと、次の9つ目は、現代の日本のクリスチャンが一番読みたくない聖書の言葉かもしれない。
日本のキリスト教の、まあ、全部ではないんですけどね、「平和をつくりだす宗教者ネット」とか「日本キリスト教協議会」とかが2020年、コロナ対策で緊急事態宣言を出せるように法改正するのに反対したんですよ。法改正が参議院で決議される日に、参議院議員会館で記者会見までして。
理由は「緊急事態宣言は信教の自由を侵害するから法改正反対」と。
こじつけてでも「迫害、ヤダ、絶対!」なんですよね。
(そのくせCOVID-19について「国の対応が後手後手だ」って批判してるんだから、支離滅裂もいいところなんだけど。)
まあ、ぼくが行ってる日本バプテスト連盟という教会もこれに参加してるんでね、ぼくも緊急事態宣言の法制化に反対した一派ということにされちゃってるんですが。

迫害については次の9番目でイエスが念を押してます。

イエスのために迫害される者

わたし(イエス)のために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口をあびせるとき、あなたがたは幸いです。(5章11節)

イエスは、イエスのために迫害されるとき幸いだ、と言ってるんですね。で、その場合の報いと言うのが、

喜びなさい。大いに喜びなさい。点においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。(5章12節)

日本人にとって、信教の自由は、憲法が保障している権利です。
でもキリスト教徒にとって、迫害を受けることの報いは、天国の保証です。

実際、日本を含めて先進国と呼ばれる「信教の自由がある国々」で、クリスチャンは減少し続けているんですよ。ちょっと前まで日本の教会では仏教を「葬式の宗教」と揶揄していたのが、いまキリスト教国では「家の宗教はキリスト教だけど、葬式の時くらいしか教会に行かない」という人がすごく増えてる。
一方で、信教の不自由そうな国でクリスチャンが増えている。ちょっと前まで欧米から派遣される宣教師の方が多かったのが、今はもう欧米に派遣される宣教師のほうが多いんですよ。
「信教の自由を守れ」「迫害ダメ絶対」は、キリスト教にとっては百害あってなんとやらではないかと思ってしまうのだけど。

駆け足になりました。今回の箇所は、これだけで解説書というか信仰書が書かれるほどのテーマなもので、ひとつひとつをもっと掘り下げたいくらいなんですが、今回はこんなところで。

では。
あなたと、あなたの大切な人たちに、神様のご加護がありますように。


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