わたしの 「趣味は世直し」。
ぬのいです。
ここ最近、というか、今の会社に入って以来、社内のメンバーから「趣味世直し」というレッテルを貼られています。「レッテルを貼られる」というと言葉が悪いかな。
「この子は趣味世直しなんだよ」って言われたら、「え、なになに、どういうこと?」って大抵はなるよね。私も別に不快なわけではないし、そんなに間違っているわけでもないから、最初の挨拶で印象に残ってもらえるならいいや、くらいに思っているわけです。
たぶん、自分から「趣味は世直しです」なんて言ったことはないんだけど、そう言われるということは、何かその匂いのようなものが、私にあるのでしょう。「なぜ趣味世直しなのか」ということを紐解きつつ、自己紹介noteというものをひとつ、書いておこうと思います。
現在
現在は、農家さん・漁師さんから直接食べ物を買えるアプリの「ポケットマルシェ」で、開発PMとディレクターっぽいことをやっています。エンジニアはフルタイムのコアメンバーが4人という少数精鋭チームです。(エンジニア絶賛募集中です。)
ポケットマルシェは2016年9月にサービスをスタートしていて、私が入社したのは2016年の7月。プロダクトがほぼ完成して最後のリリース準備をしているようなタイミングで入りました。
入社当初はマーケティング系(コンテンツ作成+プロモーション)の業務が中心でしたが、2年目から徐々にプロダクトよりに業務がシフトしていった形。Webディレクションの経験はありましたが、がっつり開発現場よりのところをやるのは初めてで、本当に何もわからないところから、エンジニア達に迷惑をかけまくりながらやってきて、今も試行錯誤の日々であります。
なぜポケマルをやっているのか
なぜポケマルなのか。それは冒頭の「世直し」の話とつながりますが、私は世界が惰性的に(という言葉が正しいかわからないけど)進んでいく方向には手放しに賛同できなくて、そのベクトルを自分が良いと思える方向に少しでも傾けていきたい思いが強い。それがポケマルで目指していける世界だと信じているからです。
私の課題意識とか、それがなぜポケマルに繋がっていくのかについては以前のnoteに書いたので、興味のある人はそちらをお読みください。
じゃあなぜ、そうした社会課題に敏感になっていったのか。その辺りのことを上のnoteでは書ききれなかったので、今回は私の原体験について掘り下げて書いていきたいと思います。
2009年、アメリカにて
2009年から2010年にかけて私は大学の留学制度で、アメリカはオレゴン州・ポートランドにいました。
私の英語のレベルはというと、受験英語しかマジでできなかったので、留学先でも初級の語学クラスが中心でした。
クラスメイトは大半が、韓国人、サウジアラビア人、日本人です。様々な授業があるわけですが、中でも印象に残っているのは、倫理のクラスでした。たとえばベンサムの功利主義なんかをやったりします。そして、毎回1つのテーマについてグループディスカッションの時間があるのですが・・・
あるとき、「同性同士の結婚はありか?」みたいなテーマが出されました。想像がつくと思うのですが・・・その場にいたサウジアラビア人は皆さんムスリムで、彼らにとって同性愛は基本的にタブーです。そうすると、彼らは「ノー」しか言わないのです。なぜ?と聞いても「ダメなものはダメなんだ」と。これではディスカッションになりません。
これは単なる一例ですが、私がアメリカで10ヶ月を過ごして肌で感じたことは、この例が示すような「価値観の多様さ」なのでした。
私は日々別の価値観と触れ合うことで、自分のそれまでの価値観を大きく揺さぶられ、自分が信じている価値観とは一体何なのかということについて深く考えさせられました。
価値観を形づくるもの
私は部屋にこもって、その正体を探ろうと、自分の思考をノートに書き殴りはじめました。
そして導き出した結論は、私の考えの根底にあるのは、私自身の美徳意識だということでした。つまり、私自身が何を善いと感じたり悪いと感じたりするのかに基づいて意見を持ったりしているということです。では、その美徳とはどこから来るのか?それは、自分が育ってきた環境の中で培われてゆくもので、自分が正しいと信じていたことは、必ずしも真実や真理ではないようなのでした。
しかも、私は私の美徳を掲げながら、常にその美徳を追求した行動ができているのか?というと、できていないし、その美徳を追求していくために俗世に蔓延る誘惑に常に勝ち続けることも無理難題に思えました。
「ああ、そうして人は出家するのかな」と思いました。
今となってはそんなの当たり前のこと、と思うようなことですが、当時は一つの真理にたどり着いたような気持ちでした。
衝撃の出会い
ここまでは前振りです。今になって思えば上記のような思考の変遷こそが、きっかけだったのかもしれないとも思います。
そんな風に自分や日本人としてのアイデンティティについて考えに考えた留学前期を終えたあと、東海岸への旅と日本への一時帰国を経て、新たなセメスターが始まりました。遠距離恋愛がうまくいかなかった当時の彼とも別れ、まさに気持ち新たに、後期の幕を開けたのでした。
後期は語学のクラスとは別に、通常のクラスも選択することになっていました。私は文化人類学のクラスを選択したのですが、そこで衝撃的な出会いを果たすことになります。
授業で用意された教科書は、文化人類学者によって書かれた『Dancing Skelton』(直訳で『踊っている骨』)という本でした。
文化人類学では、エスノグラフィという手法で、研究対象のフィールドに入り込み観察・聞き取りしたことを記述していきます。本書は、著者がマリ共和国の小さな貧困村で生活をしながら、起きたことを極力解釈を挟まずに記述したものです。
そしてそれを読んだ当時の、私の稚拙な感想を言えば、
「こんな世界あるなんて知らなかった!(ビビビッ)」
世界が広がる瞬間
たぶん、私のそれまでの人生は、本当に「井の中の蛙」だったのです。中流階級の家庭で、英才教育もどきを受けて育ち、公立の小中学校を経てなんとかギリギリ「進学校」に受かり、一浪を経てなんとか「一流大学」に受かり・・・人並みに遊んで、ダラけて、でも基本的には道を外れずに優等生で生きてきて、そういう、とても狭い自分の世界しか知らなかったのです。
だから、その本に書かれている村でのできごと一つ一つが、自分の生きてきた世界とは違いすぎて、衝撃的で、どう受け止めたら良いのかわからなくて、とにかく初めての気持ちになったのです。
エスノグラフィの特性上、そこにはあえて心を揺さぶってくるような物語性や著者の主観などがあるわけではなく、淡々とできごとが綴られているだけです。貧困だから大変だ、みたいな記述も一切なく、逆に違和感を覚えるくらいの現地人の楽観性が妙に浮かび上がっていたような気もします。
だからこそその時抱いた感覚は、ショックであり、違和感であり、そして「何かが変わる音がした」ことによる高揚感に似たものでした。
これが私の人生を変えた出会いです。
問題は何か
じゃあ具体的に何が書いてあったのか。『Dancing Skelton』に書かれていたいくつかの事例を挙げておきます。
・働けない子供よりも大人の方が食べるべきという考えを持っている
・外から見ると村の子供ほぼ全員が栄養失調だけど、現地の大人たちはそう気づいていない(当たり前の風貌すぎて)
・おしっこの色が赤いのは普通だと思っている(川には問題のある寄生虫がいるけど知らずに遊んでいる)
・ダウン症の子供がいてもわからない。記憶障害の人がいてもわからない。
・お金があったら食べ物よりも服を買いたいと思っている(あえて食べ物を挙げるならパスタが食べたい)
・お肉は、誰かがお金が必要になるとヤギを殺して売り歩き、必要なお金が溜まったら残りを自分で食べるので、お肉が手元に来るのは月2回程度
・ほとんど骨と皮だけの身体で、エネルギーも筋肉もないはずなのに踊っている(タイトルの由来)
世界を変える!
これを知ったところで、自分には何ができるのか、全く見当もつきませんでした。ただ、何か動きたくてうずうずする。なのでとりあえずインターネットで調べ始めました。
途上国開発に関する様々な情報に触れながら、「結局どうすればいいんだ?!」と思っていたところ、ダンビサ・モヨという経済学者の論文に出会いました。
ダンビサ・モヨの主張は、ざっくりいうと「アフリカへの経済援助は無意味だから止めよ」というもので、主流の開発援助のあり方を痛烈に批判するものでした。
『Dancing Skelton』を読んで、「お金というよりも教育が重要なんじゃないか」という感想を持った上で、ダンビサ・モヨの主張に出会ったので、「ああ、やっぱりお金や物資をあげるだけの援助はどうなのかな」という考えに至りました。
またこの頃から、上述のような思考の変遷も経ていたことで、徐々に一般的に正解と思われることを疑ったり、多面的に考えることが自分の考えのクセのようになっていきました。
そんなことを色々考えたりしているうちに(もちろん他にも色々あったけど)留学はあっという間に終わりを迎えました。最後のビデオレターで、「私はこの留学で人生が変わるきっかけをもらった。私は世界を変える!」と高らかに宣言して帰国したのでした。
多動期
帰国後は人生で最も「多動」な時期だったと思います。国際開発分野を学びつつ、社会起業のイベントに参加して人脈を広げたり、Twitterでも盛んに情報発信をしていました。
その後Twitterで出会った同学年の青年と学生団体をはじめ、「途上国での持続的な開発や支援について考える場の提供」をミッションとしました。ブログで自分たちが学んだことを発信しつつ、「国際協力・開発を英語のソースで勉強する会」を開いて学生・社会人問わずディスカッションする場を作ったりしていました。
ミッションの背景には、一過性の支援という形ではなく、発展途上にある国や地域が自助努力をもって持続的に良い方向へと向かっていくために、何ができるのかということを個人的にも知りたかったし、わかりやすい援助に飛びつかずに考えを深めていくことが重要だとの考えがありました。
そもそも「発展途上国の開発」と言うけれど、どのような状態になることが理想なんだろうという漠然とした疑問もありました。
その時期は、自分の貧弱な知識で物資支援とか学校作るだけ作って続かない援助のやり方を批判したり、非営利は持続可能じゃないからビジネスだよねとか言ってBoPビジネスとか、リバース・イノベーションとかに興味を持ったり、とにかく上から目線で尖っていて、ものすごく生意気だったと思います。
アフリカへの旅
就活が終わって大学最後の春休み、ウガンダ人の友達が地元へ帰るというのでついて行かせてもらうことになりました。
2週間ほどの短い旅でしたが、私はウガンダが大好きになりました。日本での就活やら色々にうんざりしていたこともあって、純粋にウガンダで暮らしたいと思いました。それくらいウガンダの人も街も自然も魅力的でした。
「途上国開発」とか言っているけど、開発してしまったら今のウガンダの良さはなくなってしまうのではないかと、直感的に思いました。
都市部は発展し始めていましたが、出稼ぎの人が溢れてスラムを作りかえって困窮していくアジアのような状況はまだ訪れていないようでした。でもじきにその状況がやってくることは目に見えていました。
この旅はまた私の考えを発展させました。
世界の問題はつながっている
旅での気づきについて考えているうちに、"developing countries"は皆"developed"を目指しているわけで、その流れは止められないんだと思いました。
家族にいい暮らしをさせるためにもっとお金が欲しいし、お金があればテレビやクーラーを買えるし、いい教育も受けさせることができるし・・・無限の欲望と消費が結びついて、グローバルに資本主義が染み渡っていく。
先進国ではもう市場が飽和していて、新しいイノベーションだとか、微妙な付加価値だとかで争うことを企業は強いられているけど、新興国やBoP層に目を向ければまだ無限の可能性が!
相乗効果で国の経済力も上がって、発展して、都市に企業が集まり、購買力のある人が増え、その人たちにモノを売る人が集まり、気づいたらモノ売りの競合が多すぎて大したお金にならず、でも地元に帰っても仕方ないからとりあえず都市の周辺で適当に盗電しながら住んで、なんなら家族も呼んで、なんとかその日暮らし。
それでも上昇気流の中にいればこの先もっとよくなっていくという希望があるし、「後戻り」することなんて、まったく考えられない。
でも、いざ日本に目を向けてみたら、経済はこれ以上上が見えない成熟状態で、通勤の満員電車にゆられる人々の目は死んでいて、精神を病む人、追い込まれて自殺する人も後を絶たない。
儲け主義は環境破壊を助長し、全ての課題・問題に対して「仕方なく」対処療法に対処療法を重ねていく。
これが、唯一の「未来」でいいのか?
日本は、ウガンダに対して、偉そうに何かを語れるのだろうか。
だから、世直し
「先進国」という言葉は、経済的に先に発展した国家のことであって、それが必ずしも「正解」を示していないことは、明らかです。少なくとも私は今の日本がお手本だという風には思えません。
SDGsのPRが盛んになってきたことで日本でもようやく「持続可能性」という言葉と概念が認知され始めたように思います。
学生の頃に掲げた「持続可能な開発について考える」というミッションは、自分の中では一切ブレていません。だから正直言ってようやく世間が追いついてきたなという感覚です。(めちゃ上から。)
あの頃は「考える」ことしかできませんでしたが、今は同じ目的のためにポケマルを通して「行動」しています。
課題先進国の日本が、世界に対して良い事例となっていくように。私は日本から変えていく。ウガンダに良い未来が訪れるためにも。
だから、私の趣味は、ライフワークは、世直しなのです。
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