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きらめきとひらめきと

ふと、グラフィックデザイナーの福田繁雄氏の作品を思い出した。確認するため図書館へ行って探したら、それは「ランチはヘルメットをかぶって」という作品だった。ナイフとフォークを848本溶接して7日で完成したという立体の作品で、そのまま見てもなんだかよくわからないけど、ある一点から光を当てると、実にリアルなオートバイが床に出現するという作品だ。

私がなぜ突然福田氏のトリックアートのことを連想したかというと、千野帽子氏の「人はなぜ物語を求めるのか」という本を読んでいた時だった。この本は、別の本を探して丸善の棚を見ていたら、その近くで見つけてつい買ってきた本だった。お目当ての本は、やめにして。

本屋に行く楽しみは、知らない本と出会う楽しみだ。通路の両側に立ち並ぶ知識や思考の壁の中に、私がまだ知らない宇宙がある。おいでおいでと誘う本もあり、お前なんかにわかるはずないんだから、と拒まれるたくさんの本もある。そんな中で、今なんとなく心惹かれて手にとってしまうのは、自分でも気が付かない別の自分が、欲しているサインかもしれない。

「がっかり」は 期待しているときにだけ 出てくる 希望まみれの言葉

これは、この本の中で紹介されている枡野浩一氏の短歌だ。そうか私もよく「がっかり」してきたけれど、それは「自分で勝手に設定した希望」に、うまく届かなかったときに出る言葉だったのか。ほかにもこの本にはたくさんの本や人の紹介があり、「物語」の仕組みについて書いてあるのだけれど、私はまだそのほとんどを消化しきれずにいる。

ただその中の第三章「人間は世界を手持ちのストーリーで構成したい」を読んで、福田氏の「ランチはヘルメットをかぶって」を思い出したのだった。いやその前の第二章、「納得できる説明は、あなたの手持ちの一般論に合致する」だったかもしれない。出来事の理由がわかると「その出来事が理解できた」という感情が起きる。その理由がたとえ間違っていたとしても。

第四章には、民俗学者、折口信夫の敗戦後の言葉が出てくる。「古代過去の信仰の形骸化のみにたよつて、心のなかに現実に神の信仰を持っていないのだから、敗けるのは信仰的に必然だと考えられた」つまり信心が足りないから負けた、ということだそうだ。結果から原因を探るのか、原因から結果が導かれるのか。そしてそれは真実に近いのか。

最近の遺伝子の研究は、加速度的に量と解析速度が増しているようで、そんなことまでわかったの、というニュースがたまにあったりする。たとえば英国のウイリアム王子の七代前の祖先にインド人女性がいたとか。これはダイアナ妃の叔母の唾液に、インド人特有のミトコンドリアDNAが含まれていることでわかった。そしてこれは母から子どもに伝わるので、ウイリアム王子の子どもには伝わらないそうだ。

英国はそんなことは無いのだろうが、もし、「ヨーロッパ王室以外の血は一滴も入っていない純血の王家だ」とかそういう「立て付け」になっていたら、ちょっとした問題になるかもしれない。身も蓋もない事実が、リアルな現実を突きつけてくるから。

第二章に生物学者、池田清彦氏の「元来科学は対応関係を解明しているので、因果関係を解明しているわけではない」という言葉を引いている。

福田氏のトリックアートのように、たくさんの資料の中から、選りすぐりの(好みの)資料だけに光を当ててて作られたストーリーが、唯一であるかのような歴史がこの世にないとはいえない。歴史は証拠と事実であらわしてほしい。有力な証拠一つで、作られたストーリーは意味を失ってしまうから。

1642年にエマニュエル・メニアンという遠近作画の研究者が描いた絵が、ローマのスペイン広場の丘の上の「聖トリニタ・ディ・モンティ教会の二階の回廊にあるそうだ。福田氏は非公開のその修道院の壁画を、なんとか見たいと懇願して、やっと1980年の夏に見学する事ができたそうだ。それは「アナモルフォーズ」という遠近法の逆手法で描かれたフレスコ画で、ある一点の場所からみれば形が見えるという仕組みの絵だ。

その日、福田氏は手に汗握って、その時を待った。真っ暗な回廊の中に、中庭からの強烈な夏の日差しが鎧戸の隙間から差し込んだ時、ひざまずく聖フランチェスカが一瞬浮かび上がってきたという。それは感動的で、300年前の善男善女?なら、宗教の「奇跡」に出会ったと確信したに違いない。たとえそれが精妙に計算された仕掛けだったとしても。







 




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