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私の心をのせるお皿は

今日は、灼熱地獄が来ないうちにと、一番小さい部屋(わかる?あそこ)の溜まっていた換気扇のホコリ取りを、脚立に登ったりしてやっとすませた。ついでに食器棚の中の棚卸しを始めたら、いろいろ考えてしまった。

私は整理も整頓もうまくできない。ミニマリストのyou tuberや整理魔の先生が、片付けられない人に、手を替え品を替えアドバイスをして教えているのを見ても、それを真似してみようと心が動かない。フランス人は何枚服を持っているのか知らないけど、(あの本、フランス人は、と言い切るところがすでにすごいけど)、服をどんどん縫っている身としては、そんなにすぐには捨てられない。

結婚した時は食器もなくて、自分で選んで買ってきたからこんなに増えたのだけど(わかってる、犯人は私)、出して眺めていると買ったときの様子をつい思い出してしまう。最近とんと使わなくなった食器を、処分の箱へ入れようかと考えるとき、手が固まって進まない。

とりあえず一揃い買っておいた食器を、割れたりした折々に、少し良いものに買い替えて、いい買い物をしたな、とうれしかった日。人が家に来て集まるというと、それ用に大皿や取皿を用意しなくちゃ、と買い揃えた。そういう機会もなくなってくると、ただの場所ふさぎのように思えてくる。買ったときのあの「満足感」は今やどこにもないし。

料理が得意な人なら、その料理ごとに凝ったお皿で食事をするのもありかもしれないけど、最近の私の手抜きズボラ料理には、そんなにいろんな種類のお皿もいらない。油も手間もお金もかけない「カロリー減」を目指すことにして(建前だけは)、一汁一菜の貧乏料理の毎日の暮らしには、出番がない食器だらけになった。

そこでいざ割れ物用のシートにくるんで段ボール箱に詰め、一旦不用品の物置部屋(勝手にそうなっただけ)に置いておこうかと見てみれば、一つしか残っていないティーカップに、家族旅行の思い出が貼り付いていたりする。伊集院美山のガラス工房「ウェルハンズ」の繊細にきらめくコップ。絵柄もバラバラなご飯茶碗は、それぞれが金沢でカゴの中から選んだ九谷焼の二級品だ。旅先の1日目でついパスタ皿のセットを買って運んだことなど、いつか見ながら話してみようかな。

そうやって考えているうちに行き詰まって、ちょっとお茶を飲んで休憩した。出てくるたくさんの箸、弁当用の箸箱、フォークやスプーンなど、ほとんど久しぶりに見るものばかりだ。夏用の藍色のガラスの皿、そうめん用にしているそば猪口、灰色から暗い青へのグラデーションが西洋人の瞳のような、大きな紅茶のティーポット。

何用と用途がはっきりわかっているものと、きれいだし、いい品だし捨てるのがもったいないからと、今までキープしてきたものとを見比べていると、気持ちが傾くのは、やっぱり使える食器のほう。芋の煮っころがしをのせたらいいかも、とか、サラダはこれが食べやすいよね、とか。

もう、どんな本だったか映画だったか覚えていないけど、年をとって一人になって、部屋の中の思い出の品に語りかけるシーンがあった。子どもの描いた絵や喧嘩した時欠けた皿など、他人から見たらなんの価値もないものに、かつての温かい思い出が宿っていて、それを使うたび、見るたびにそのぬくもりが蘇る。

ふと思い出して、ああ、そういうものかもしれないな、と今日は思った。デパートで買ったときの値札にはとらわれない、自分だけの値打ち。競争したり、見えを張ったり、自分でも知らないうちに、見えないものに追い込まれていた時に欲しかったものと、今とは欲しい物が違う。でもきっとその時の、心があっぷあっぷしていた自分は、生活に彩りが欲しかったのだろう。

役に立つ食器、コーンスープはこれ、魚はこれ、パスタはこれ。それからいつか気持ちが弱くなった時に、やさしい物語を秘めているものも少しとっておこうか。今日はそんな食器を棚に並べ直した。使いながら考えてみよう。今自分はどんな暮らしが心地いいのか、何を大切にしたいのか、まだ良くわかっていないような気がするから。



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