わたしの好きな歌

映画「ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌」がついにDVD化したらしい。

この作品を知っている人はどれだけいるだろうか。もう30年も前のアニメーション映画である。映画公開後、テレビで放送されたものを録画したビデオを何度も何度も繰り返し見た記憶がある。原作漫画も持っている。

早20年以上もネットの海に住んでいるが、親しくなった誰かとこの作品について語り合った記憶はない。話しても誰も知らないのだ。ネットが普及する前の作品で、当時発売されたらしきVHSとレーザーディスクはとうの昔に廃盤(あってももう再生機材がない)、何年かに一度テレビの有料チャンネルで放送されるか、小劇場で限定公開されるかでしかもうお目にかかることができない。動画サイトに転載動画の一つや二つあってもいいじゃないかと思ったりもしたのだが、マイナーすぎるからなのかそれもほとんど存在しない。だから私のように、ふっと思い出して見たくなっちゃうだけの人にはもう2度とじっくり見るチャンスなんてやって来ないんじゃないかという諦めすらあった。
ファンの間では人気が高く、DVD化を求める声は何年も前からあったようだが、そうならなかったのが何故かもわからない。色々な曲を使っているので権利関係が、という噂はあったが真相は謎だ。それが令和も5年目にしてようやくDVD化したっていうんだから、もうこりゃ観るしかあるめぇ。見たさ。見たよ。

ネタバレをされたくない人は読まない方がいいかもしれないし、見たことない人にはよくわからない話をするんだけど許して欲しい。

一応あらすじを説明すると、まる子が隣町で出会った絵描きのお姉さんと仲良くなってからさよならするまでのハートフルな物語である。
我ながら雑すぎる説明なので、もっと詳しいあらすじは知りたければググって欲しい。

最後に見たときからそれこそ30年近く経っているはずだ。それなのに私はこの映画の中身を鮮明に覚えていた。山の奥の薬屋さんは完璧に歌えるし、友蔵の俳句のおかげで恥という文字にはいつでも思いを馳せていたし、一月は正月だから酒が飲めるし、月と太陽には顔がある。

もう始まりから色々と危うかったが、お姉さんが「めんこい仔馬」の2番を歌い始めた瞬間から夫のいる前で号泣してしまい、何も知らない夫は「え?え?泣いてる?泣いてるんやけど!?」とドン引きしていた。自分でも抑えきれないほどの何かが込み上げてしまい、短時間ではあるがここ最近でいつどの瞬間よりも情緒が不安定としか言えない状態に陥ってしまった。何年も見たいと思い続けていた作品をもう一度観ることができるという喜びと、今大人になったからこそよりよくわかる物語の泣きどころで完全にやられてしまった。お姉さん、バンザーイ!バンザーイ!

まる子はお姉さんの晴れ姿を見てバンザーイと叫ぶ。喜ばしい日であるから泣いてはいけない、万歳して見送らねばならないのだ。ケータイもネットもない時代だから、今みたいに簡単に繋がることができない。お姉さんとまる子は二度と会うことはない。二度と会えないのは相手が死んだのも同じ。でも二度と会えなくても大好きなことは変わらない。戦地に向かう仔馬とお嫁に行くお姉さんを重ねるという胸を締め上げて殺しにくるような発想はきっと今の時代からは生まれないだろう。死にに行くのに何が万歳か。私たちはこの悲劇を忘れてはいけないのに、どうして世界は戦争をしてるんだろう、なんてところまで考えを巡らせてしまったよね。

何よりこの作品は映像がいい。原作漫画にはない、映像でしかできない本気の遊びがパンパンに詰まっている。30年前にこのアニメーションのクオリティは脱帽するしかない。大筋の物語はよくある感動ものだが、間に挟まるミュージックビデオはまさにザ・ワールド。メインキャラクターだけではなく植物や動物の神秘的なデザインは後のさくらももこの繊細で美しいイラストたちを彷彿とさせる。私はこの電子ドラッグのような作品を子どもの頃に、それこそ30年経っても忘れないほどに何度も見た。改めて見ながら、あぁだから私はペイズリー柄や曼荼羅模様に強く惹かれてしまうんだろうと気付かされた。この作品が私という人物の根っこに近い部分に深く組み込まれてるということは間違いない。

電子ドラッグのような作品といえば不思議の国のアリスもかなりイっちゃっているが、あれも結構リピートしたので今の私の頭がおかしいのは必然である。考えずに感じればいいだけのものを、なまじ頭の良い子どもだったが故に辻褄を合わせようと一生懸命考えていた。今でもそうであるから、そういう癖(へき)なのだろう。おどるポンポコリンの意味を深読みして泣いてしまうくらいである。

ところでこの作品と同時に大野くんと杉山くんの話も販売されているらしい。こちらもまたちょっとグッときちゃう作品で、今のテレビ版では普通にクラスメイトとして生き残っている大野くんが転校してしまうという話だ。
さくらももこの描く別れのシーンは印象深いものが多く、大石先生の離任の話もあるが、やはり一番泣いたのはコミックエッセイ「ひとりずもう」のラストでたまちゃんとお別れしたところだろう。さくらももこの訃報を聞いたときは真っ先にたまちゃんの気持ちを想像してしまった。もしもドラゴンボールがあったなら願いの一つはさくらももこの復活に使うだろう。

鑑賞後のテンションではちゃめちゃに書き殴った気がする。おわり。

追記という名の蛇足

お姉さんがまる子に背中を押されてお兄さんとの結婚を決めるシーンがあるのだが、ここを後から冷静になって考えてみるとモヤモヤが止まらなくなった。
お兄さんの実家は北海道で牧場をしている。お姉さんには東京で絵描きになるという夢があり、お兄さんは大学を出たら東京で就職すると言っていた。しかしお兄さんは正月に実家に戻ったことによって実家の牧場を継ぎたいという気持ちが強くなり、お姉さんについてきて欲しいとプロポーズをする。お姉さんはショックを受け一度は拒絶する。
「絵なんてどこでも描けるじゃないか」
「君は僕より夢を選ぶんだね」
要約するとこんなことをお姉さんに言って背を向けて去っていくんだけど、これってなかなかに酷い話だと思う。
インターネットもない昭和の時代に上京を諦めるというのは夢を捨てるに等しいわけで、その決断を前振りなしに強いるというのはかなりの横暴ぶりである。絵なんてどこでも描けるというが、大都会東京と北海道の田舎ではチャンスの数が違いすぎる。この時点でこの男はお姉さんの夢を軽く見ている。まして、牧場の跡取りのところに嫁に行けばそのサポートに日々を追われることは目に見えており、東京で自由に絵を描く暮らしとは程遠いものになるだろう。こんな大事なことをお兄さんは勝手に決めてお姉さんに正常な判断をさせないなんてあまりにも酷いではないか。お姉さんが自分より夢を選ぶことを罵るくせに、この男はお姉さんより自分の夢を当たり前のように選ぶのである。それでもお姉さんはお兄さんについていくのだが、冷静に考えればこんな人生の大事な瞬間を相談もなしに決めてしまう男がいい男だとは到底思えない。夢を追うことよりも愛した人と一緒になることの方が幸せで大事なこと、という価値観。なるほど、昭和じゃねーの。

もちろん物語は結果オーライで綺麗に終わっているので美しい。私が無駄に現実的な思考を巡らせただけである。この作品が大好きということは変わらないんだけど、歳をとったことによって余計なことを考えるようになっちゃったなぁという話。30年は長いね。

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