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脱字はだいたいアレですね、一度書き終えた文章を直すときに、最初から書き直さず、そのまま一部を削ったり書き加えてしまうような行き当たりばったりのテキスト編集をしていると起きやすいですね。要するに横着です。まあ、このツイートもそうやって書いちゃっているんだけど。ガハハ。
そういえば京都でこじゃれた日本酒バルに行ったんだけど、店員さんがその場で注いでくれるという、まあよくあるスタイルで、グラスの下に小皿が敷いてあったから、これもよくあるスタイルでちょっぴり零してくれるのかなと期待したら、グラスの縁でピタッと止めるスタイルだった。こじゃれていたね。 小皿や升に溢れさせて注ぐのを、盛りこぼしっていうそうですね。まあアレはサービスの一環だというのはわかっているので、小皿に零してくれなかったじゃん! ケチ! とまでは思わないけど、どうせグラスを持ち上
きょうの晩ごはんにすればいいじゃないかと、あなたは思うかもしれない。きょう買った天津飯なのだから。たとえ日持ちがするとしても、せいぜい明日の朝だ。むしろきょう食べるのが正しいのだ、と。しかしは私は強い口調であなたの助言を否定するだろう。なぜなら今夜は、刺身の気分なのだから。
ひとの弁当を見るのはとてもいい。弁当はいつも、少し先の誰かに向けて作られている。たとえば子どものために、パートナーのために、自分のために。そこに僕は手紙のような温かさを感じる。作り手から相手への優しい視線を感じる。弁当には、日常のささやかな物語が詰まっている。
実生活の物語が濃密になってくると、ひとは軽やかに駆け抜けるような文章を読みたくなるのかもしれない。リアルな時間の流れよりは幾分か早く、しかしどこかのんびりとした筆致の。たとえばエッセイやコラムと呼ばれるものや、グルメ雑誌やタウン誌などの(あえていうなら)どうでもいい文章のような。
5年前の神戸マラソンで、ストップウォッチ代わりにスマホを使っていたら35キロ付近で動かなくなっちゃって、後日ドコモショップへ持っていくと「ああ、水に落とされたんですね」って水没扱いにされた話、聞きたいですか。 【追記】 汗で水没ってするんですね。
どのジャンルや場面でもそうだと思うんだけど、読む人に興味をもたせることのできる文章が、良い文章なんだと思う。書き手としてはそのために、読む人をしっかり想定することが大事なのかもしれない。その人は自分でもいいと思う。むしろ最初の読者は自分なのだから、自分を大事にすべきかもしれない。
たとえば小説に描かれた風景を想像するとき、自分が実際に見てきたものの影響が強く出ませんか。いま住んでいる街はもちろん、子どものころの記憶だったり、映画のワンシーンだったり、あるいは夢の一部だったり。一方で、“小説で見た”ものが、別の小説を読むときの想像に影響することもあります。
朝の散歩道で野良猫を見かけた。2秒ほど互いに見つめて、猫はぷいと顔を背けた。僕はそれでも猫を見ていた。3歩ほど進んで「なんや」という顔で猫は振り返った。数年前まで猫が嫌いだったのに、最近は猫が気になって仕方ない。人は猫を構いたいのではなく、猫に構われたいのかもしれないと思った。
少年が公園でセミ取りをしていた。植え込みの低木に止まっているらしい。そっと近づき、右手を伸ばす。しかしセミはジジジと鳴いて飛んでいった。僕の頭上でおしっこをしながら。少年よ、諦めるな。
信号待ちは、けっこういろんな会話が聞こえてくる。少年と母親が自転車にまたがり、何かを話していた。どうやら今朝になって急に声変わりをしたらしい。確かに声変わりしたばかりのような、かすれた声だった。「びっくりしたな」「朝起きたらいきなりや」二人とも嬉しそうに、自転車を漕いでいった。
ときどき思うのだけど、みんなもっと「いったい何の話やねん」という話をしたほうがいいと思う。なんでもかんでも有意義にしようとしなくていいじゃないと思う。オチがないから何だというのだ。無意味でわけのわからない話を、「いったい何の話やねん」とケタケタ笑い合うのも、案外悪くないよ。
20代の前半くらいまで、海外の小説を読むのが苦手だった。おそらく、文章から景色を思い浮かべにくかったのだと思う。カタカナの名前も出てくるし。ところが最近は好んで読むようになった。昔みたいに、一晩で一冊を読むような集中力は失いつつあるけれど、想像を生みだす器は大きくなったのだと思う。