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ぞわぞわ、ぞくり。

桃がおいしい季節になった。熟れたものを包丁を使わずにじっくりと剥いていって、そのままかじりつくのが好きだ。お行儀はわるいけれど、剥いている最中にそのまま台所で食べてしまうこともある。うしし、と思う。子供の頃にはできなかった悪事に手を染めているような、小さな優越感に浸る。

もちろんそうした優越感も蜜の味であるし、丸ごと食べたほうがみずみずしい果実の歯ごたえを楽しみ、果汁を残さずに味わえる気がする。そして桃アレルギーの友人のことを思い返しては、こんなに美味しいものを食べられないなんて…! と、少し気の毒な心持ちになることもある。

まあ当人からすればアレルギーで体が受け付けないわけだから、そもそもその食べ物を美味しいと感じたことがないかもしれない。だとしたら食べられないことを他人が必要以上に気に病む必要なんてまるでないのだけれど、それでもやっぱり「なんでこのおいしさを味わう権利が全人類に与えられていないのかねえ」と疑問を抱いてしまう。

アレルギー。私自身には好き嫌いも含めて、「食べられない」食品は全くないと思っていた。だが、実は少しだけ思い当たる節がある。

高校時代、私は勉強というものが嫌いだった。できることなら少しでも早く帰りたかったし、課題をやる時間さえ惜しくて、好きな音楽や本を楽しむ時間に当てたかった。だがあいにく義務と課されたものを放り投げるほどの勇気もなかった私は、しぶしぶ授業やテストに向けた課題に取り組むしかなかった。

なんとか自分で自分のご機嫌を取るために、自動販売機で好きな飲み物をひとつだけ選んで買ってよいというルールを設けた。あるときはいちごみるく、またあるときはカフェオレ……と、パックの飲み物を好んでよく買った。しかし同じ味を選び続けるのにも飽きてしまって、何か新しいものはないかと、並ぶ飲み物たちをじっとみつめていた。

すると、ひとつだけ風変わりなものがあった。
パックの『豆乳』だった。
もちろんその名は耳にしたことがあるし、自動販売機に並んでいるのも目にしたことはある。しかし実際に飲んだことはなかった。類似した豆腐は好きだから、どうせその親戚みたいな味だろうと思って、興味本位でとりあえずボタンを押したのだったと思う。

パックにストローを挿し、ちゅう、とひとくち吸った。ぞわぞわ、と何かが込み上げるような感覚があった。なんだこれは。もうひとくち吸うと、ぞくり、とからだがふるえるくらいの衝撃があった。
――これはすごいぞ!今までにない感覚だ!

もちろん味はおいしかった。豆腐よりもすこしもったりとしていて、だけど牛乳よりもすっきりとしている。舌がじんわりとして、なんとも言えない風味があっておいしい。並んでいる他のジュースやコーヒーにはないおいしさがあった。
そして何よりもこの、ぞわぞわ、ぞくり、という感覚である。まじかよ、と思った。もっと早く飲めばよかったぜ、と後悔すらした。

それからしばらくの間、放課後の勉強の合間に、息抜きでパックの豆乳を飲む日々が続いた。
その衝撃は日が経っても薄れることはなくて、勉強の眠気もたちまちシャッキリと覚めたから助かったものだった。
当時好物を尋ねられたら迷いなく「豆乳」と答えていた。高校を卒業してからも、たまに自動販売機で同じ豆乳のパックを見かけると、つい手に取ってしまうくらい思い出深い飲み物だった。


さて、それから時が流れて数年後。たしか社会人になってからだったと思うのだが、まだ実家で暮らしていた頃に、いただきもののメロンを食べる機会があった。
スプーンで掬い上げて、ぱくりとひとくち頬張った。

そのときに、ひさしぶりに感じたのだ。
――ぞわぞわ、ぞくり。という、あの感覚を。

ものすごく感慨深いものがあった。これはあの豆乳以来のヒットかもしれない。そう思ってもうひとくちぱくりと食べると、ぞくぞくとからだがふるえる。舌がびりりとしびれるようで、押し寄せてくる感覚に、思わず顔をぎゅっとしかめた。

「……あれ。メロンだめだっけ?」
そう母に聞かれたのは、そのときだった。

「え? いや、すきだけど? めっちゃおいしいじゃん」
口ではそう答えながら、あれ?と思った。まあ確かに外から見ていたら嫌っているように見えるかもしれない。これは弁明が必要だ。なんとかしてこの衝撃を伝えなければ。

「いや、だってさ。食べるとこう、ク〜〜〜〜ッ! てからだがふるえる感じで、舌がこう、ジュワーってしびれる感じもして、これこれ、このかんじ〜って、ぞくぞくして……!」

「え。それ、アレルギーじゃないの?」

と、言われてみればたしかに、メロンを食した直後は喉もイガイガするし、やたらとからだがかゆくなる感じもする。へんな汗も出るし、舌もピリピリするし、よく考えてみれば明らかに体に起きているのは「異変」以外の何物でもない。

……と、いうことは、だ。
高校時代の青春の思い出のひとつでもある、あの豆乳も。飲んだ時に「ク〜〜〜〜〜ッ!」とふるえるようにしびれた、あの感覚も。

そうか。そうだったのか――とは認めたくなくて、気づいてから一度も豆乳を口にしていない。やっぱり思い出の中のまま、好物は好物としての記憶のままに、しまっておきたいような気がしてしまう。

今は便利な世の中で、採血をすればアレルギー項目をまとめて調べることができるのだという。
だがどうも気が進まず、結局のところ、未だにアレルギー検査を受けずじまいである。

だから私の中では、メロンも豆乳もまだ「好物」のままの位置付けである。だが何かの機会に出されたら遠慮をするようにしている。
食べてしまったら、向き合わなくてはならないのだ。あの、快なるものであると信じて疑わなかった感覚に。そうすればきっと、「すき」なものを「すき」なままではいられなくなってしまう。

からだをふるわせるあの感覚を思い返す。
「すき」と「きらい」はきっといつだって裏返しだ。小学生の男子が好きな女子にいたずらをしてしまうように、それらの相反する感情はもしかしたらとても近くにあるのかもしれない。


台所で熟れた桃をかじり、そのおいしさを楽しみながら、今もなお「すき」で居続けられる安らかさに胸をなで下ろす。
快と不快、すきときらいの境界はあいまいだけれど、いま感じているおいしさだけは確かなものだ。ああやっぱり、今年もちゃんと、桃がおいしい季節になってくれたのだ。