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祝福に慣れていない

あんまり、こういう切り口で意見を水面に投げ入れるのは、無邪気に祝福してくれている人たちに悪い気がしている。

実は、この週末に結婚報告を遅れてInstagramにアップした。facebookにも連携して投稿された。
ここを読んでくれている諸氏には、最速で「ご報告」したわけだが、自分としてはまさにその当時の熱というのだろうか。「実は、婚姻届、出してきたんですよ……へへ」みたいな感覚をそのnoteですっかり発散しきってしまっていて、
今更報告して「おめでとう!」「おめでとう!!」「おめでとうございます!!」絶え間なく来るメッセージに、気圧されるまである。

完全にタイミングをズラした弊害だ。変に守りに入るんじゃなかった。

祝福をもらえるのは、本当にありがたいこと。会社関係の人、親戚、中高時代の友人。
なんなら久々にやり取りをする人もいたりして。

ふと最近「自分は実はとても人間関係が希薄ではないのか」「配信業をやっていなければ人と関わる機会が0になるんじゃないのか」とさえ思っていたのに。

あまりにメッセージを寄せてくれる人の多さに、気圧されるほど、自分は人に囲まれて生きていたんだな、と感じる。


祝福に対して自分の中での第一のレスポンスが、相手への感謝より、「お、おう」みたいなどうにも乾いたものになってしまうのは、理由がある。たぶん複数ある。

それは我ら夫婦にだけは共通している感覚で、でも多くの人には伝わりづらく、言語化したとしてあまり明るいものではない。
だからここに、そっと置いておく。

最近「誰にも見せないインターネット」というサービスを会社の人のススメでかじってみたのだが、そこよりは、見えるところに置いておきたい、思い。


何度も言うけど、明るい話ではないよ。

そもそも僕たちは、家族とうまくいっていない。見る人が見ればわりと深刻なレベルで、うまくいっていない。

だから、当然、どちらも報告はしていない。
あまりしたいとも思っていない。
それを寂しくは思うけど、悲しくは思えない。思いたくても、思えない。

今のところ予定はないのだけど、例えば子供ができたとして、親に預けたい、と僕は思えない。
お金のことで深刻に困ったとしても、親より友人を優先するかもしれない。

そんな状況だからか、
僕たちの結婚は、というかそもそもの同棲が、家族から逃げるようなものだった。
血の繋がった他人より、心の通った相棒と近い暮らしがしたかった。
実際人並みに二人の生活を揃えるのは苦労したけど、以前よりずっとずっと良かった。たぶんこれが家庭だろうと、体に感覚が染み付いていった。

要するに、
僕たちはもうずっと前から、家族になっていたのだ。
家族という穴が、もともと埋まっていなかった穴が、生活をともにする過程で「これがそうなのだ」と無意識に埋めてしまったのだろう。

だから多くの人が「恋人→家族」「共同生活の開始」と定義する「結婚」が僕らにはさほど輝いて見えないのだ。

熟年夫婦とはこういう感覚か、とさえ思う。本当の熟年夫婦にはまだ若いと怒られてしまうかもしれないけれど。

もしかしたら奥さんの真意はわからないけど、
僕としては「結婚式」とか「結婚パーティ」とか、心惹かれない。煩わしいとさえ思う。少なくとも自分のは。
ただそれは経験がないゆえ、偏見の目がないとも言えない。

僕の重視する幸せは、人と分け合うものでなく、もっと日常的で、もっと地道な日々で、一人静かに抱えておきたいものなのだと思う。
人に幸せを分ける気がないのだから、ひょっとしたらとんでもない自己中で人嫌いなのかもしれない。

恋人とか、妻とかも、僕の心にはずっとしっくりこなくて、
家族とか、家庭とか、パートナーとか、相棒とか。その辺がしっくりくる。

だから結婚は、何かが変わるものでは全然なく、ただ呼び名が変わるだけ、ただ書類があるだけ、ただ約束が強固になっただけ。
そんな感覚で、日常の延長なのだ。通り過ぎる通過点、そこにたまたま標識があっただけ。非日常じゃない。


だからまぁ、あまり祝福してくれるな。という気持ちだ。

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