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【編集部コラム】「うまくいかなかったら離婚でしたよ」

 名古屋市にあるJR金山駅から徒歩約3分。マンションや飲食店が立ち並ぶ中、突如、木造平屋建ての一軒家が現れます。中に足を踏み入れると、床はミシミシと軋み、ところどころ下が空洞になっているような感触が……。

「絶対シロアリですよ」

 そう言って笑うのが、佐野友樹トレーナー。井上尚弥とも戦ったこともある彼が、中学生の頃から通っていたのが、1943年創立の松田ボクシングジムです。

「僕はずっと松田ジムだし、このジムが大好きです」

 そんな松田ジムの大勝負があったのが、1994年12月4日のこと。名古屋市総合体育館レインボーホールでWBC世界バンタム級王者統一戦が行われました。〝浪速のジョー〟こと辰𠮷𠀋一郎と松田ジム所属・薬師寺保栄の一戦は東海地区での瞬間最高視聴率65.6%を記録。〝世紀の一戦〟と呼ばれ、今なおボクシングファンの心に刻まれています。

 故・松田鉱二会長が意地を見せ、興行権を342万ドル(当時のレートで約3億4000万円)で落札。9800人収容の会場に、1万枚を超えるチケットを売りさばき警察の指導が入るなど、その舞台裏はまさに狂騒曲そのものでした。

「大変でした。もう思い出しただけでも腹が立つ(笑)」

 鉱二さんの妻・和子さんもその渦中に巻き込まれた一人。裏方としてチケットの払い戻しなどに奔走していたそうです。

 そんな試合を辰𠮷サイドの最前列で眺めていたのが、佐野トレーナーと同い年で松田家長男の松田鉱太・現会長でした。

「もうすごかったですね。子供ながらに鳥肌が立つくらい。今思い出しても鳥肌が立ちます」

 あれから30年――。

 鉱太さんはボクシングを習いにジムに通っていたものの長続きせず、高校生の頃から本格的にマネジャーとして手伝いを始めました。そこからマッチメイクを任されるようになり、2023年12月8日に先代が亡くなると3代目会長に就任します。

 いつもジムの入口付近にある椅子に腰かけ、鋭い眼光と大きな声でジムを鼓舞していた前会長。家庭よりもボクシングに心血を注いだ先代のことを、佐野さんは「ボクシングの神様」と言い、鉱太さんは「僕らは犠牲になってますけど、やっぱり好きなんですよ」、和子さんは「うまくいかなかったら離婚でしたよ」と冗談交じりに話してくれました。

「もう辞めてもいい」

 鉱太さんは母・和子さんにそう言われつつも、「(父を)超えたい」と思う日々。「お前の好きなようにやれ」という父からの言葉を胸に、30人ほどの練習生らとともに長らく遠ざかる世界戦を目指しています。

 世紀の一戦から今に至るまで、松田ジムはどのような足跡を辿ったのか。今回は『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』(講談社)の著者でもある東京新聞の森合正範さんにその松田ジムにまつわる記事を書いていただきました。

 ジムの写真はカメラマンの夏目圭一郎さんがご担当。昭和の雰囲気が漂うジムの空気を、原稿と写真から感じていただけると嬉しく思います。

(写真&文・中川聡/Number編集部)

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