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嫌なことをやめてみる④

嫌なことをやめてみる④
~他人軸で生きることをやめてみた。
~他人軸の人付き合いをやめてみた。
~足るを知るじゃん!

人付き合いについて、人それぞれ大切にすることは異なる。違って当たり前であるし、それぞれがそれぞれの価値観で生活している。ただ尊重しても付き合いを続ける必要はないか。「しばらく連絡しないと機嫌を損ねちゃうかな。ご飯行こうとかで連絡しなくちゃな」と母親に対しての気持ち。。。う??これって母親に自分の気持ちを埋めてもらおうとしてないか?これは、やはり母親に認めてもらいたい、評価してもらいたい、褒めてもらいたいがあって、それで自分の存在価値、つまりは自分を埋めようとしてはいないか。でもお母さんは私のことを見てくれない、向いてくれない、認めてくれない→やっぱり私はダメ、劣っている→母親が素晴らしいと思う社会にも入れなかった→自業自得。勉強しなかった自分が甘かったから底辺の仕事しか就けない、人に使われる、汚い、きついことでお金を稼ぐしかない、辛い、苦しい。

↑そりゃ、そうだ!!
だって母親が良い、素晴らしい社会での話だったら私はダメというレッテルで生きている。人が嫌がる仕事しかないのである。
でもこれって、他人軸じゃない?と思ったのである。他人軸(母親、社会、学校、今まで出会ってきた人たち、価値観、理念、通念、国民性、マスコミ)が良い、素晴らしいとしている中で選択、決断していたのである。つまり、これら他人軸で自分の何かを埋めようとしてきたのである。自分が他人軸にどれくらい寄せられるかが評価であったのである。
自分は他人(相手)にはなれないなんて分かっていたのに社会的地位、評価で自分を満たそうとしていたのである。
余談というか今だから思うことは、「よそんちはよそんち。うちはうちだから~」と母親は言っていたが、母親が好きそうな同級生を持ち出して「○○大学行って△△会社に就職して今はお母さんになっているのよ」と話すが、これは自分が子育てをしてその子供たちが母親が素晴らしいと思う社会に当てはまった→私(母親)も子育てして立派に育て上げた→自分の母親としての価値を認めてほしいのだと思う。これも他人軸じゃん。。

話を戻して。
私は相手、モノ、社会的地位、評価、理念つまり自分の周りにあるもの、見られるもので満たすのではなく、私は私で満たすを許可することにしたのである。
人付き合いで言うと
・自分が一緒にいて楽しい人と過ごす
・他人軸(人、モノの評価、価値観)を大切にする人とは一緒にいない
・今ここを大切にしない人とは過ごさない(過去、起こってもいない、未来の話をする人は×)
・自分を尊重しない人×

でも自分を自分で尊重する、今ここを大切にするということは、。。。。もうすでに「足りている」ことなのでないかと。サントーシャ:「足るを知る」である。自然の一部である私たちは、ありのままで完全であり無限な宇宙とひとつにつながっている、私はすべてを知っているのである。ヨガスートラ(1-23,24)にもあるが、本当の私たちは見るもの=プルシャで完全なるもの。ただ無知であるがゆえに、見られるものが本当の自分と思い、混乱、不安、恐れ、欲望を生む。そのような思いが人々を駆り立てカルマを生むと。つまり、苦悩、行い、行いの結果から自由であること=イーシュヴァラ。森羅万象を動かす大いなる存在、宇宙意識。

他人軸のピースで自分を埋め込まない、絶対に当てはまらないものだから。そんなピースを削ったり折ったりしたって絶対に埋まらないから。そんな加工するなら、もういいじゃん!もっと楽して自分の為だけのピース、「私はすべて知っている」で生きていこう!!


 

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