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感情を体験してみる

自分の整理、散らばっている感情を内側に向けるについて、また向き合う。

母親のことを書き出して整理、感情を出して認めること、許すことをしており自分の中ではほぼ許したと思っていたが、また出てきた。
まだ許せないと執着して握りしめていることがある。これは握りつぶせるのかなと思っていた感情。もしくは得意なやり方の、なかったことにする、ぐるぐる巻きにして縛って蓋をするのである。
でもやっぱり時々ヤツは出てくるのである。
今日も出てきた。
高校生の時にはすでに母親との関係は感情の亀裂が完全に生じて軋轢同士がぶつかり合っていた。そしてとうとう母親は私を「存在しないもの」として扱った。苗字で呼ばれたのである。または、「御宅」である。これはさすがに反論した。でも存在しないものからの反論は母親には無いものなのである。私はいないのである。肉体はあるがそれ以外は何も所持していない。肉体以外は剥ぎ取られたのである。「見るもの」を剥ぎ取ったのである。意識、感情、感覚、行動、想い、本当の自分、魂は母親からの辱しめを受けて、受け取った。受け取らなければ肉体を手放すことだ。剥ぎ取られたものは徐々に腐り痛みがある。穢れた「見られるもの」は腐敗し暴走した。
本当にこの時は人が嫌いだし人は裏切るもの、私を笑いものにするものだと思って人と接していた。だから私のところに来ないで、見ないで、喋りかけないで、触らないで。でも寂しい、孤独を、さらに過去の腐敗物で埋めた。

今、振り返りこの思い、感情を辿りました。良いとか悪いとかじゃなく、私の感じたことを素直に受けました。外に求めるのではなく私が私であるために。。
もう罪悪感は受け取りません。愛、光を受け取ります。

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