どうでもいい人が神

'そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 ' マタイによる福音書 25:34-45 新共同訳

「すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』」。目の前の人を助けることは、主を助けること。目の前の人すなわち主を助けた人は、実際に助けたことがあるだけに、その応答が具体的です。

具体的だというのは、目の前の人、つまり主を助けなかった人の、雑な応答と比べてみたら分かります。助けなかったほうの人は「すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』」。さらっと片づけてしまう。

助けたほうの人は、主からの問いかけそのままに繰り返します。飢えている人には食べ物を、旅人には宿を、裸の人には服を、病人や囚人には見舞いを、と。相手がまさか主だとは思わなかったけれども、目の前の人に一所懸命やったことならある。だから、そういう人の言葉には実感がある。けれども何もしなかった人は、したことがないもんだから、「世話」という抽象的な一言で、あっさり要約してしまう。

「世話をしなかったでしょうか」と、雑な一言でまとめてしまう人。その人にとって神というのは、自分の日常からは遠く離れた、天におられる存在だと思っている。たとえばそれは日曜日の礼拝で、心おだやかなときにだけ出会える存在。でも、じつはあなたの目の前に、神はいる。むしろあなたが「こいつ、めんどくさいなあ」と思っている相手に、十字架で苦しむキリストは重なっている。

古代の人にとって、信仰は心のなかだけの安らぎみたいな、個人的な問題ではありませんでした。というよりも、心のなか「だけ」の信仰という感覚は、古代人にはまったく理解できない ──── いやいや、なにを言ってるんだ、わたしたちは現代人だ。古代人とはちがう。わたしは、他の人がどうであれ、この「わたし」の心の平安のために教会に来ているんだ。それのなにが悪いんだ────でも、それでいいんでしょうか。イエスはそういう、わたし個人で完結してしまう信仰に、揺さぶりをかけてきます。

かつて疫病や飢饉が何度も教会を、つまり教会がそこにある世界を襲いました。そのたびに、効果があるかどうかも分からないのに、人々は目の前で倒れている人を助けようとしてきました。こんにちではそれらは専門化、細分化され、医療や福祉の領域となっています。でも、たとえわたしやあなたが医療や福祉の専門家ではなかったとしても。わたしたち一人ひとり、ふだんの生活のなかで、できることがなにかある。今こういう時代だからこそ、できることがなにか。

目の前の人に、なにか小さな一つ、具体的なやさしさを示せたら。それはとても嬉しいことですね。そのとき目の前の人があなたに感謝してくれるだけではありません。その人と一緒にイエス・キリスト自身が「ありがとう、今回はほんとうに助かった。あなたと出遭えてほんとうによかった」と言ってくれますからね。

でも、いつもうまくいくとは限らない。目の前の人があなたの善意に気づいてくれないとき。あなたの善意がすれちがい、誤解され、拒まれたそのとき。どうかあきらめないでください。「どうせ人は人、自分は自分。他人に干渉するとろくなことがない」と達観しないでほしい。他の誰も気づいていなくても、イエス・キリストはあなたに「ありがとう」と言っていますから。イエスは達観するどころか愚かなくらい、どこまでも他人に関わろうとする人でした。あなたの善意は必ず、そういうキリストによって報われます。いや、すでに報われています。お祈りします。

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