一滴、また一滴


'そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。' マタイによる福音書 3:13-17 新共同訳

「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。わたしも一人の信徒として、今まで何度もこの、イエスが洗礼を受ける場面を読んできました。ですが今までなんとなく読んできた、この一言が今とても気になります。今は、洗礼を受けさせてくれと。立場や身分としてヨハネが上なのかイエスが上なのか、それは今は問題ではない。今は一人の洗礼志願者として、洗礼を受けさせて欲しいと。正しいことをすべて行うのは、我々にとってふさわしいではないかと。

この一言、すごく響くのです。「今は止めないでほしい」の「今は」というのは、ほんとうに今この瞬間という意味です。今この瞬間、この行為がわたしにとって、そしてあなたにとって、きっと必要だ。だから一緒にやろう。過去のことも、これから先のことも、いったんわきに置いて。今、まさにこの瞬間に、正しいと思うことをやろう。そうやって一つ一つ、その瞬間瞬間に、正しいことを積み重ねていこう。「正しいことをすべて行う」というのは、「正しいことのすべてを満たす」。そう、地道に一つ一つ、正しいと思う小さな行為を積み重ねて、後で後悔のないように、満たしていく。一滴一滴、小さなしずくが、やがて大きな器を満たすように。

ところで、その場で正しいと思うことをやったら、いつもプラスの結果が出るのでしょうか。そうではないことは、ヨハネやイエスの生涯が証言しています。ヨハネはこのあと、捕らえられて首を刎ねられてしまいました。イエスもヨハネ以上に、瞬間ごとの正しいことを一つ一つ満たしていったけれども、それは人々に理解されず、誤解され、反感を生み、憎悪さえ生じさせ、最後には十字架で殺されてしまいました。

そこまで極端なことを言わなくても、わたしたちにだって、そういうことはあると思います。今は、止めるべきではない。これは、我々にとって正しいことなのだ。だから一緒にやろう────そうやって一つ一つ満たしていくのだけれども、なかなか結果が出ない。むしろ否定的なものしか見えてこないことさえあります。一滴一滴、ほんとうに器に落ちてくれているのか?しずくが乾いた土に落ちているだけで、器は空っぽのままでは?それとも器に穴が開いてやしないか?...

コロナ禍においての、もどかしい営みが、まさにそれです。去年の春先に、礼拝をオンラインと手紙でのやりとりに限定しました。わたし自身、礼拝堂で独りで発信を続けるのは孤独で苦しかった。そしてやっとコロナとのつきあい方にも少し慣れてきて、礼拝も軌道に乗るかと思いきや、今再び、集まることができなくなりました。何が正しい判断なのか。あるいは、どう判断しようが、けっきょくのところ我々は自然や社会に翻弄されるだけで、無力なのか。

そうではない。イエスは十字架で、たしかに殺されました。惨めな結果です。先にも言いましたが、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と、正しいことを一つ一つ満たしていったヨハネは首を刎ねられて処刑されましたし、イエスは十字架で惨殺されました。これのどこが彼らにとって正しく、ふさわしいことだったのか。正しいしずくを器に満たすどころか、ぜんぶ乾いた地面へこぼれて、吸い込まれてしまったではないか。

しかしイエスはキリストとして復活しました。ヨハネも今や天において、イエスのもとで安らいでいます。わたしたちの判断、わたしたちの一つ一つの「今」は、閉じた「今」だけで結果は出ないのです。「今」はつねに神の永遠へと開かれており、神が、わたしたちの「今」の積み重ねに必ず報いてくださいます。いや、今すでに報いてくださっています。それが、わたしたちの教会の信仰なのです。場所はそれぞれ違っても、共に励ましあい、慰めあい、互いの苦しみに耳を傾けあいながら、祈りを共にしましょう。お祈りします。


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