奇跡ではなく言葉がけ

この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。 ルカによる福音書 7:37-38 新共同訳

イエスの時代、売春であれ身体の障害や持病であれ、そして精神の疾患や障害であれ、それらは宗教的に罪とみなされていた。メアリ・ダグラスの『汚穢と禁忌』を読めば、それは頭脳で理性的に学習された宗教的な決まり事というよりも、(そういう理性的側面もありつつ)もっと身体化された「うわっ汚い!」みたいな感覚であったことが想像される。

そこで上記の女性である。伝統的に彼女は売春などの職業に従事していたと解釈されてきたし、他の箇所に登場する、マグダラのマリアと同一人物であるとも言われてきた。わたしはそれらが間違いであると言いたいわけではない。ただ、伝統的な解釈はいったん横に置いて、この女性のイエスへの「もてなし」を素朴に眺めるなら、古代人にとってさえ彼女の行動は異様に映ったのではないかとわたしは感じたのだ。

イエスの背後からその足元に近寄るのだから、彼女はイエスに這って近づいたのかもしれない。イエスの足を濡らすほどだから、彼女は号泣したのではないか。しかも濡れた足を布ではなく自分の髪の毛で拭う。そしてサンダル履きが通常だった当時、足は乾燥しやすかったから、彼女はイエスの足に香油を塗ったのだろう。それにしてもイエス以外の男性なら、いきなり背後から這ってきた女性にこのようなことをされたら、驚いて足を引っ込めたかもしれない。

ところがイエスは平然としている。どうやら自分の足を、女性にされるがままにしているようだ。イエスにとって、彼女の行為が常軌を逸しているという感覚は微塵もなかったようである。これはわたしにとって、新鮮な驚きであった。

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