他人の内心を問うわたしの内心を問う

少し長いが、聖書を引用する。

'朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 ' ヨハネによる福音書 8:2-11

昨日、ある芸能人の不倫事件が4年経ってもいまだにその芸能活動にマイナスの影響を与え続けているという記事を読んだ。わたしは4年前同様、この聖書箇所が想い出されたのであった。それでなんとなく、上記のなかの一節だけ引用してツイートした。するとやっぱりというか予想以上にというか、反対意見が多く寄せられた。そのなかには聖書に詳しい人もおられたようで、その趣旨は以下のようであった。すなわち、この聖書箇所の女性はイエスへと信仰において悔い改めたが、当該の芸能人はそうではない。だからこの聖書箇所を引用することは不適当であると。あるいは、この芸能人は悔い改めるどころかますます金儲けに走っているではないかという意見もあった。

わたしとしては、そういう意見も分からなくはない。というのも、当該の芸能人は不倫が明るみに出た当時は記者会見を開いたり謝罪をしたりしていたが、その後は「ふつうに」メディアに登場しているからだ。その「ふつう」の内側で芸能人自身が反省しているのか否かは、我々には分からない。なので「反省するどころか舌を出しているのではないか」という推測も成り立ち得るのである。

だが一方で、反省、それも視聴者に対して表明可能な反省とはどういう態度を指すのか、明確な基準はあるのだろうかともわたしは思う。例えば、いちどでも不倫が明るみになれば、即座に芸能界を引退することが反省なのか。しかしその場合、引退したあとで「好き放題」やりたいことをやっていたら、それは反省なのか。あるいは逆に、批判の逆風に耐えながらも元居た職場で地道に芸能活動を(たとえ人気が凋落しても)続けるということもまた、その人なりの生き直し、すなわち反省とも言えるのではないか。

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