人から嫌われることが不安なんてもんじゃない、恐怖だった。

初任地ではmixiだった。それとブログ。しかし人からの反応はあまりなかったので、むしろ今noteを書いているように、自己表現を素朴に楽しんでいた気がする。

無職になってしまい、関西の郷里に住んでいたわたしは、ニュースのみで東日本大震災を知る。何もできないが不安だけはつのるなか、わたしは震災関連の報道で情報共有メディアとして話題になりはじめた、ツイッターを始めた。誰が、どんなことを語っているのか。その発言の多様さは、知人のみと繋がるmixiの比ではなかった。そしてわたしも何百という人と繋がることに興奮を覚えた。そのなかには実際に会うようになり、今や親友とさえ言えるほどに親しくなった人もいる。

その後アカウントを作りなおして、わたしは再度牧師へと復職した。アカウントを作りなおしたのは、無職の折に怒りにまかせて呪詛めいたことばかり呟いていたからだった。今度は実名で、伝道目的でツイッターを利用しよう。わたしはそう計画した。

新たな任地は山や干潟に囲まれた、まるで秘密基地のような場所だった。たしかにツイッターのフォロワーは増えた。だがフォロワーのプロフィールや呟きの中身から察するに、その多くは都市部の人であり、わたしの働いている教会へアクセスできるような人はほぼ皆無であると知れた。当初は伝道目的のアカウントであったはずが、次第にわたし個人の趣味や思想を語るものへと、それは変質していった。誰かにわたしの自分語りを聴いてもらいたかったのである。また、有名な漫画家の方などがフォローしてくださったことで、わたしの虚栄心は有頂天になった。この土地ではわたしを認めてくれる者はいない。だがツイッターでは多くの人々が「本来の」わたしを認めてくれている────それは痺れるような快感だった。

そのときは気づかなかった。わたしはツイッターに病的に依存していたということを。わたしはその土地で、はっきり言って孤独であった。幼稚園の園長として多くの保護者に接すれば接するほど、子どもがいない自分、妻に寂しい思いをさせている自分が情けなく感じられた。甲斐性という、前時代的な言葉がわたしを殴った。現実には人から「甲斐性なし」と言われたことなど一度もなかったのに。

わたしは朝から晩まで幼稚園の職員室に詰めていて、夜はくたくたになって牧師館へ戻り、泥のように眠っては再び幼稚園へ、という生活を繰り返した。地域に友人もできず、妻とも心理的な距離が出来ていたわたしには、ツイッターだけが慰めであった。「いいね」がつく。ましてやリツイートされる。それは至上の幸福であった。

あるとき、数千ものリツイートがなされた。それに伴いフォロワーが一気に増えた。その興奮に目覚めたわたしは、今度は意図的にリツイートされそうな、そしてフォロワーが増えそうな呟きを模索し始めるようになった。ところが、偶然バズった出来事を人為的に再現できるほどの才能は、わたしにはなかった。「いや、必ずできるはずだ」と、わたしは仕事もそっちのけでツイッターに夢中になった。パチンコや競馬でビギナーズラックを味わった人がギャンブル依存症に雪崩れ込んでいくのと全く同じことが、このとき起こっていた。自覚は一切なかった。

ここから先は

1,275字
この記事のみ ¥ 300

記事に共感していただけたら、献金をよろしくお願い申し上げます。教会に来る相談者の方への応対など、活動に用いさせていただきます。