居場所探しについての随想

自分の居場所。趣味やサークル、宗教など。ほどよくプライベートであり、ほどよく公共の場でもある場所。そういう居場所が欲しい。厳密にプライベートな、つまり自分の部屋だけでは寂しい。かといって職場はあくまで仕事場、公けへと振り切れている。プライベートと公けとの、その中間の居場所が欲しい。

上記のような欲求を持っておられる方は多いかと思う。教会にお越しになる方でも、キリスト教の教義に惹かれたというよりも、居場所を探してここへ辿り着いたという方が少なくない。そこで、居場所探しに関して、わたしから何ほどか言えることはないかと考えた。

まず言えることは、「居場所は一回居ただけでは分からない」、これである。もちろん、明らかに不快な思いをした場合には二度とそこへ行く必要はない。だが、「ここって自分に合っているのかな?まだ分からないな....」というのなら、もう一度行くことをお勧めしたい。何度か通ってみて分かってくる魅力もある。その場所の雰囲気に慣れてくることで湧いてくる居心地のよさもある。

次に言えることは「自分にぴったりの場所はない」、これである。いや、あるよ。それはそうだ。だが趣味やサークル活動で「ここは自分にぴったりの場所だ」と思っている人のすべてが、はたして最初からそう感じていたのだろうか。わたしは、そうではないと思う。むしろ自分をその場へと「ぴったりするよう合わせていった」人も、けっこういるはずである。また、自分をそこへとぴったり適合させてゆく、そのプロセスも楽しいものである。最初はぎこちなく緊張している。だが、だんだん慣れてゆく。メンバーと徐々に打ち解け、少しずつ語りあえることが増えてゆく。場に適応することへの喜び、それはいきなり訪れる体験ではない。

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