鼻がくっつくほど間近に、それはある

ツイッターで相互フォローさせて頂いているなかに、日本野虫の会@panchichi3という方がいる。自然公園の手すりに蠢いている、興味のない人には決して見えない小さな虫たちにカメラを向け続けるアカウントである。それらの虫たちには蝶のような派手さはない。だがなんとも愛らしく、美しい。そして畏怖や尊厳を感じる。

もしかすると、それは撮影者である日本野虫の会さん自身が、虫たちに対して畏敬の念を抱いておられるからなのかもしれない。写真を拝見する限り、余興で虫と向きあっているようには到底思えない。自然公園に来る人々は山林や花を眺め、深呼吸する。だが手すりなど誰も気に留めないものだ。しかし彼(おそらく男性)は手すりのみに目を向ける。そこには間違いなく世界がある。虫たちの巨大な世界が。

わたしは牧師という仕事をしているので、いわゆる超越的な世界へとつねに思いを馳せている。死や来世について、これまでもここで何度も記事にしてきた。神とはこの世を超えた存在者であるし、死者もまたそういう場へと旅立つのだと。しかし超越的な世界は、なにもこの世を超えた場所だけにあるのではない。とことん間近の手すりに、それはある。そのことを日本野虫の会さんは教えてくれる。人間の理解を超えた、微細で、しかし超巨大な世界がそこにある。人間が決して作り出すことのできない命の蠢きが、そこでぶつかりあっている。手すりという、これほどに小さな場所に。いや、小さな場所などではない。全世界である。虫たちにとっては全宇宙である。

中世の神学者、エックハルトはこう語る。

一匹のハエといえども神の内でこれを受けとるならば、それは神の内では、自分自身の内にある最高の天使よりも貴いものとなる。(田島照久訳)

死や来世への想いだけが超越的なものを指し示すのではない。遠くを視るだけが祈りではない。目の前の、間近にいる虫に、わたしたちは神を観ることができるのである。

今までの任地は若者が流出する地方都市だったこともあって、教会に若い人が来ることはほとんどなかった。正直言って実感レベルでは、若い人には宗教など必要ないのかもしれないとさえ感じていた。その一方で、人間ではない若々しい命との出会いはたくさんあった。そららの土地にはゆたかな自然があり、都市部では見られないような虫や動物たちと、しばしば遭遇した。

たしかに、パソコンのキーボードの上にとつぜん巨大な百足が落ちてきた時には、ひっくり返りそうになったものだ。しかしそういう体験も含めて、頻繁に人間以外の生物と遭遇することをとおして、この世界の中心は自分ではないこと、自分もまたさまざまな生き物のなかの一匹であることが感じられた。

わたしはそれらの生き物それぞれが視ているであろう、わたしとは全く異なる世界を想像しようとし、その想像のできなさにあらためて驚いたものであった。この虫の神、この狸の神とは、どのような神だろうか。それは、このわたしの神と同じように映るだろうかと。いや、神神と繰り返しているのは、このわたしだけではないかと────愚にもつかない空想かもしれないが、わたしの心は躍った。

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