神でさえ万人受けしないのに
もうタイトルで結論を言ってしまったようなものだが、神でさえ万人受けしないのに、神と並べ語るのも畏れ多い、ただの人間にすぎないわたしごときが多くの人から嫌われるのは当然ではないか。ただそれが言いたかっただけだ。
もちろん、牧師という仕事をさせていただいている以上、なるべく人に好感を持っていただけるよう努力はしている。先日、かつて区議会議員をしておられた30歳代の方とお会いした。とても身ぎれいにしておられ、清潔感があった。一見何気ない無難なスーツ姿のなかに、他人への配慮がうかがえた。一方でわたしはといえば髭をはやしているが、伸ばしっぱなしの無精髭ではなく手入れをしている。服装や髪型、臭いにも注意はしているつもりだ。人と接する仕事なので、最低限のマナーとして清潔感を保つように努力している。
しかしそれはそれとして、SNSではそうした好感度を高める努力は効果がない。書き言葉しか伝えられないのだから当たり前である。わたしの書き言葉は、その思想や表現がしばしば偏っている。攻撃的にならないよう気をつけてはいても、時に他人を傷つけてしまう。また、わたしの表現の特徴や癖が生理的に気持ち悪いと感じる人や、苛々する人も、かなりの数いると思う。ツイッターのフォロワー数が1000を超えたあたりから、風当たりの強いリプライをもらうことが増えてきた。フォロワー数は1000であっても、リツイートされることもあるわけだから、もっと多くの人がわたしの言葉にふれるわけである。当然「なんだこいつは!」と、わたしの言葉に強い怒りを覚える人もでてくる。
残念ながら、その一人ひとりに謝罪や弁明をすることは、わたしの能力では不可能である。SNSで「出会う」人の数は、おそらく人間が日常生活で顔を覚えられ、誠実に向き合うことのできる範囲をはるかに超えている。カリスマ的な国会議員などは数千人単位の顔と名前、出会ったときのことを憶えていられるらしいが、わたしには到底不可能である。何十人、何百人、何千人もの人が、拡散された批判リツイートによってわたしに敵意を抱いたとしても、わたしにはそれを打ち消すほどの説得力ある弁明を語ることはできない。
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