この言葉に躓こう

'「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」' 
マタイによる福音書 5:38-48 新共同訳

「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と。これはたいへん難しいことを、イエスは言っている。わたしはいつもここで躓きます。むしろ教会において、パウロからルターの流れにあるように、「信仰のみによって救われる」と言ってもらいたかったなあと。きわめて不完全であるわたしだが、不完全なままで、ただ信じることをとおして救われると。そうイエスさまには言ってもらいたかった。

ですが、そこでわたしは思いました。ただ信じるだけで救われると言ってもらったほうがよかったというときに、明らかに「そっちのほうが楽でよかった」と、わたしは思っている。こればっかりは言いわけのしようがない。完全な者になるというのは、ぼんやりとイメージするだけでもしんどいですからね。「あなたはありのままでいいんだよ」と言ってもらったほうが安らぐし、何かを新たに志す必要もないから、やっぱり正直言って楽ですもんね。

イエスはいわば「神の完全さを目指せ」と、ものすごく挑戦的なことを言っている。そして、その実例がこれですよ。「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」。どうにも受け容れ難い、これらの言葉です。しかしこれらの命令、よくよく見ると、左の頬をも「向けなさい」とか、上着をも「取らせなさい」と。頬を向けるのも、上着を取らせるのも、あなたの積極的な行為であれと命じている。いっそ喜んで、自分からそうしろとさえ言っている。右の頬を打たれて、左の頬も打たれたって仕方がない、我慢しろとか、下着を取られて、上着も取られても涙を飲めとか、そういう受け身の、ただ忍耐を強いる、悲しみと怒りの被害者になれとは言っていないんです。

では、こうした積極的行為について、イエス・キリストは我々に不可能なことを言っているのか。たしかに、神のごとく完全な者になど、やはりどうやってもなれません。では、イエスが命じているこれらの極端なことは、どれもまったく不可能か。イエスは誰にもできない妄言を言ったのか。

ところで、ここでのイエスの話はどれも、命じられる人と、他の誰かとのかかわりについてです。他人との出遭い、見知らぬ他者との遭遇に際して、どう振舞うかの話なんですね。それをぜんぶ、あなたならあなた、わたしならわたしの、損得だけの話にしちゃっていいのかと。そうした「このわたし」だけに終始する損得勘定に、イエスは挑戦してきています。あなたが何の損もしなければ、それでいいのかと。このわたしさえ栄えれば、それでいいのかと。「わたしとは何か」を追及し、自己実現していくことだけが、あなたの人生なのかと。

イエスは損得を超えた、いやむしろ他人のために喜んで損することに、神の完全さを見ている。チャリティーの語源はギリシャ語のカリス、つまり恵みです。神の親切さ、寛大さです。ところで神の親切さは極端です。なにしろイエスは十字架で、激痛と死というリスクを背負ってまで、他人とかかわろうとしたんですから!損も損、大損な生き方です。もちろんわたしたちにはそんなことはできないし、神さまもわたしたちが血を流すことなど望んではいないでしょう。ですが、イエスが神のような完全さをわたしたちに求めるとき、ときには他人のために損をしよう、他人のために痛みをともなおう、そういう生き方をして欲しいと願っているはずです。

今、多くの人が苦しんでいます。教会にも、さまざまな痛み苦しみを背負わされた人々の叫びが聴こえてきます。こういう世のなか、こういう時代だからこそ、「完全なものとなりなさい」というイエスの言葉を聞き流さず、そこでいちいち躓いてみたいのです。お祈りします。

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