聖書のような奇跡はあるのか
わたしは今日も教会で、集まった人々に奇跡の話をしていた。
使徒ペトロが、足の不自由な40歳過ぎの物乞いの男を、イエス・キリストの名によって立ち上がらせる奇跡である。制度的な社会福祉が皆無といってもよい時代。この男は今までずっと、神殿の門の前で物乞いをして生きてきた。歩けないから、住居から物乞い場所までは人に運んでもらっていた。しかし奇跡が起こった今、彼は躍り上がって神を賛美し、自分の足で歩いて、おそらくそれまでは入ったことのない神殿の内部へ、礼拝のために入っていったのである。(使徒言行録3:1~10)
奇跡のなかの「足が不自由だったのに立ち上がった」という部分だけを見れば、現代の教会で毎度毎度そんな出来事が起こるのかと問われれば、正直「いいえ」と答えざるをえない。各地の教会には、さまざまな身体や精神の障害を負った人々が礼拝に来ている。ではその人たちの障害がただちに癒えて、いわゆる「健常者」になるのかと問われれば、皆無だとは断言できないにしても、ほぼ無いに等しいとは言える。
『悪魔祓い、聖なる儀式』という映画がある。カトリック教会には正式な任命を受けた、悪魔祓いの資格を持った司祭たち、いわゆるエクソシストが存在する。彼らは悪魔祓いの儀式を、教会の正統な手続きに従って行う。ところで、『悪魔祓い、聖なる儀式』を観ていて分かったのだが、そこに集う「悪魔憑き」の人たちは、精神疾患や障害、薬物依存その他に苦しむ当事者たちである。日本なら精神科に通う、あるいは入院するような人たちだ。
彼らは司祭の執行する儀式で起こる、いわば「奇跡」によって癒され、元気になる。だが映画を観ている限り、完治はしないようである。彼らのほとんどは症状が再発し、その都度司祭に悪魔祓いをしてもらう。ここで日本人の多くは思うかもしれない。それは奇跡ではなくてまやかし、インチキではないかと。精神科に行けよと。
ところで、わたしは以前、ある事情で精神科病院の閉鎖病棟に1か月半、開放病棟に1か月半の、計3か月入院していたことがある。
閉鎖病棟で過ごしていたときのことだ。ふだんはおだやかだが、ときおり壁に向かって独り言を言う人がいた。彼の入院年数を別の人から聞いて驚いた。50年以上!十代で入院して以来、人生の大半をそこで過ごしてきたのである。そしておそらく、もう生きて外の世界に出ることはないのだという。看護師によると、彼のほかにもこういう患者は多くいて、「社会的入院」と呼ぶのだそうだ。外に出ても身寄りがなかったり、社会復帰に手間がかかる(と医療側が判断した)患者はこうなっていく。
その50年以上入院している彼が、ここ20年来親しくしている、やはり古株の患者がいた。その人と話しているとき、彼はおだやかだった。ところがある日突然、20年来の友は開放病棟へ移動してしまった。友のほうはそれなりに嬉しかっただろう。ようやく閉鎖から開放へ移り、少し自由になれるのだから。だが唯一心許せる友を引き剥がされ、閉鎖病棟に独り残された彼は悲惨であった。彼は一切、我々に対して日本語らしきものを語らなくなった。壁に向かって奇声を発するだけになってしまったのである。彼にとっての「社会」が喪われると同時に、彼は言葉を喪った。(もっとも、開放病棟に移った友は友で、ある日突然、なんの前触れもなく「あなたは退院です」と告げられる憂き目に遭ったのだが。外の世界に対して社会的免疫を喪った状態にある彼の、退院を喜ぶどころか呆然とする顔を、わたしは忘れられない。)
ここで『悪魔祓い、聖なる儀式』に戻ろう。重度の精神疾患や障害の当事者、薬物依存からのリハビリと揺り戻しとのあいだをさまよう人。彼らは悪魔祓い師の「奇跡」によって、一時的によくなる。再び悪くなれば、また悪魔祓い師のもとへ。彼らはそれを繰り返しながら、だましだましであれ、社会のなかで生きている。不器用ながら恋愛もする。「健常者」たちに混じって生活しているのだ。
それが奇跡ではなくインチキであるというなら、閉鎖病棟で半世紀以上閉じ込められるのはインチキではないのだろうか。彼だけではない。20代後半の若者であっても、病棟内に十年以上閉じ込められ、教育の機会も奪われ、このままでは社会に出る機会は永久に来ないだろうという人もいた。半世紀予備軍は何人もいたのである。こうした医療は科学的で疑いを差し挟む余地はなく、一方で悪魔祓い師が重症者を「奇跡」によってどうにかこうにか社会に帰しているのはインチキなのだろうか。
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