行きたくない場所へ行くときには
「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 ヨハネによる福音書 21:18 新共同訳
我々は置かれた状況が自分にとって苦痛に満ちたものであるときには、不満を訴え、状況を改善しようとする。状況が改善しなければその場所を去り、より良い場所を目指して探求する。それは古代であれ現代であれ、人間が生きていく限り変わらないことである。今日であれば情報や選択肢があふれているぶん、かえって人は「もっと自分に合った場所があるのではないか?」と苦しむ。一昔前なら諦めていたことでも「あなたにはまだまだチャンスがあるよ」と囁かれれば、諦めきれないからである。インターネットには「こんなわたしでもまだまだ」と思わせるような何かがあふれている。漠然とした可能性は、人を苦しめる。
わたしは最初から牧師になりたかったわけではない。なりたい職業があったし、そのために行きたい大学もあった。だが受験には失敗し、阪神淡路大震災で心身の「芯」はポッキリ折れてしまった。かろうじて、しかし望まずに入った大学にもまったく馴染めず、過呼吸の発作に何度も襲われては救急車のお世話になり、けっきょくニートになった。
そのとき苦し紛れに通ったカウンセリングの臨床心理士が、神学部というものの存在を教えてくれた。わたしは牧師になりたいというより「神学」という分野があることに惹かれ、「医学」への憧れよりははるかに劣るものの、入試の容易さから神学部の門を叩いたのである。
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